【2】
平家の牛車に景時の邸に送り届けられた後、一息つく暇も無く、望美は八葉、朔に取り囲まれることとなった。
無理も無いことだ。
源氏側の彼らにとっても、望美と知盛とのことは寝耳に水な出来事だったのだから。
解放される頃には、真夜中近くになってしまっていた。
望美は宛がわれた局に戻ると、ふうと息をついて脇息にもたれかかった。
とにかく、いろいろなことがあった一日だった。
夜を徹して知盛と激しく剣を交わらせていたのはつい前夜のことなのに、すでに遠い昔のことのように感じられる。
ひょっとしてあれは夢だったのではないかとまで感じてしまう。
「神子。もう寝ている?」
妻戸を遠慮がちに叩く音と一緒に、伺うように掛けられる声。
白龍のものだ。
こんな夜更けに何の用なのだろう。
「まだ起きているよ。どうしたの?入ってきていいよ」
「よかった」
妻戸を開けて、白龍が笑顔を覗かせながら入ってきた。
そしていそいそと、望美の前に腰掛けた。
「神子、喜んで。私の力は満ちた。だから、次の月の満ちる夜にあなたを元の時空へ帰してあげられる」
「え……?」
白龍から思いもかけない話を持ちかけられて、望美はきょとんとなってしまった。
「怨霊は消え、五行の均衡が取り戻された。だから、今なら神子を帰すことができる。ずっと元の世界に帰りたいとあなたは願っていた」
「……」
「神子?嬉しくないの?」
ぽかんとして返事の無い望美に、白龍は不安げな表情を浮かべた。
望美は慌てて首を振る。
「ごめん!こんなにすぐに帰ることができるだなんて思ってなかったからびっくりしちゃって……。ありがとう、白龍」
「ううん。元の世界へ帰すことが、あなたの龍として私にできる最後のことだから」
「次の……満月なんだね……?」
「うん、あと五日後」
「そっか。みんなともお別れなんだね……。元の世界へ帰れるだなんて、不思議な感じ……」
和議も成立し、望美がこの世界へ留まる理由もなくなったのだから当然のことなのに、こうして急に目の前に迫ってくると実感として湧いてこない。
それに……。
頭に浮かぶのは、知盛の面影。
現代へ帰ってしまったら、もう彼とは……。
「さびしい?でも大丈夫。離れても神子と私たち、繋がっているから」
「繋がっている……。そうだよね……。帰るための準備をしなくちゃね。でも、今夜は疲れたからもう寝るね」
「うん」
白龍はやさしく微笑むと立ち上がった。
そんな白龍に、笑顔で手を振りながら望美は言った。
「おやすみ、白龍」
「ゆっくり休んで、神子」
妻戸がそっと音も無く閉まると同時に、望美は脇息に突っ伏した。
”離れても神子と繋がっている”と白龍は言った。
では、知盛とは……。
八葉のように宝玉での繋がりがある訳でもなく、対を成す黒龍の神子の朔との間にあるような繋がりも無い。
よく考えてみると、彼と自分の間に確かな繋がりがまったく無いことを実感して暗い気持ちになってくる。
一晩中剣を交わして得た絆など、ひどく曖昧なものだ。
夢ではないかと感じているくらいなのだから。
でも、このまま終わってしまうだなんて嫌だ。
彼が生きる運命を、やっと手に入れることができたのだから。
翌朝、望美は平家の邸の前にいた。
とにかく知盛に会いたかった。
昨夜、あれから考えてみた。
元の世界へ帰る時には知盛と一緒にと考えてもみた。
だが、知盛は平家の御曹司。
長男重盛として今は将臣が仮にいるが、戦いが終結したことによりきっと将臣は重盛の名を返上して引いていくだろう。
将臣の引いた後に平家を背負っていくのは、清盛の血の流れをくむ知盛に違いない。
そんな彼を連れて行ってしまったら……。
平家の人々は、きっと惑うことになるだろう。
そういったこれからのことを考えたら、彼を連れて行くことは諦めなくてはならない。
そうするしかないと一晩考えて、頭の中では分かったつもりなのに……。
それなのに、知盛にどうしても会いたかった。
会ったところで、何を伝えたらいいのか分からなかったのだが。
「女、何用だ」
門の警備にあたっている武士に声を掛けられて、望美ははっとした。
ここは、平家の邸。
元の世界で友達の家を訪れるのと同じ感覚で来ても、簡単に出入りすることはできない。
まして、知盛に会うなどと言ったらそう易々とはいかないだろう。
本来ならば、先触れの使者を出し、了承を得てから訪れるべきところだ。
自分の無計画さを呪いながらも、望美は用件を述べてみた。
「知盛に……いえ、知盛さんに会わせて欲しいのですが……」
「新中納言様に?」
「新中納言……。ええ、そうです。新中納言さんに」
望美にとって、知盛は知盛だ。
役職で言われてもいまいちぴんとこないが、ここは相手に合わせることにした。
門番は、新中納言に用があると述べた望美の上から下までを、検分するかのように訝しげな表情で眺めた。
奇妙な服装をした女だが、手にしている刀や羽織っている陣羽織の仕立てなどを見ても、一通りの身分のものとも思えない。
どこぞの遊び女か白拍子かと最初は一瞬思ったが、纏う雰囲気を見てもそうではなさそうだ。
「して、名は?」
「源氏の神子。春日望美です」
「源氏の神子!?」
その名を耳にした瞬間、門番は目をむいた。
改めて望美を上から下まで眺める。
だが、望美の言葉だけでは信用できなかったのであろう。
傍にいた仲間と思しき武士に、彼は耳打ちをした。
耳打ちされた武士は、邸の奥へと入っていった。
きっと、知盛に伺いを立てにでも行ったのだろう。
その武士が戻ってくるまでの間、望美は好奇の視線を向けてくる武士をやり過ごしながら待った。
しばらく後、奥へ入った武士は戻ってくると、望美を邸内に入るように促した。
「女。ついて来い」
「あ!はい」
「おい。知盛様から、ご許可が出たのか?」
「ああ。とりあえず通せとの仰せだ」
「大丈夫なのか?」
「知盛様がそう仰るんだから、いいのだろう。それよりも、俺はいたくご不興を買ったさ。あの方は寝起きが悪くていらっしゃるからな。…というわけで女、来い。遅くなったら、またお叱りを受ける」
不機嫌そうな面持ちで武士はそう言うと、望美を知盛の住む対の屋まで案内してくれた。
はたして知盛は、階に腰掛けていた。
着崩した狩衣を身に纏い、足を組み。
いつも以上に気だるげなのは、寝起きのせいもあるのだろうか。
「ここでいい、下がれ」
「はっ」
案内役の武士が下がると、知盛は憮然とした表情を浮かべながら望美に言った。
「逢瀬を望むのならば、夜にするのが道理というものだろう?」
「う……。朝っぱらからごめんなさい」
見るからに不機嫌な知盛の態度を前にして、望美は後悔して俯いた。
そんな望美の姿を一瞥してため息を吐くと、知盛は言った。
「まあいいさ。とりあえず相手をしろ、朝早くに起こされたことだしな」
「え?」
知盛の申し出を飲み込むことができず、望美は目を瞬かせた。
太刀を手に立ち上がった知盛を見て、ようやく意味が理解できた。
稽古の相手をしろと言っているのだろう。
事態を飲み込むまでに時間が掛かりポカンとしていた望美を見て、知盛は意地の悪い笑みを浮かべた。
「神子殿は剣の相手は不服で、夜伽の相手をお望みか?」
からかうようにそう言われて、望美は慌てて刀を手に立ち上がった。
「ちょっ!?ううん。今、相手するから」
「クッ……それは残念だな。来い」
”残念”と聞き捨てなら無い台詞を知盛は呟いたが、そのことには触れず望美は刀を抜いた。
とにかく今は、稽古の相手をすることに夢中だった。
「お前は、相変わらず面白い太刀筋をしているな」
「自分ではよく分からないんだけど、そうなの?」
「ああ……お前の動きは、まるで舞を舞っているかのようだ……」
満足げな笑みを浮かべながら、知盛は柄杓で汲んだ水を一口飲んだ。
ひとしきり剣を交えた後、二人並んで階に腰掛ける。
この邸を訪れたのは早朝だったはずなのに、太陽がだいぶ高いところまでのぼってきている。
気づかぬうちに、随分長い間、稽古に打ち込んでしまっていたようだ。
望美は、隣に座る知盛の横顔を眺めた。
知盛とこうして並んで座ったのは、幾度目かの時空で熊野で過ごした夏以来のことだ。
知盛の隣にいられる時間を、この運命で再び手に入れることができた。
だが、それもあと4日で終わってしまう。
4日後には、望美は元の世界へ帰らなければならないのだから。
――元の世界に帰ることになった。
そんな言葉が喉元まで出掛かってきたが、飲み込んだ。
告げたいのに、告げることができない。
帰ることを告げることにより、今のこの現実を失ってしまうような気がした。
「お前も飲め」
「え……」
思いつめたような表情で見つめてくる望美に、何を思ったのか知盛は水を勧めてきた。
勧められるまま柄杓を受け取った後で、望美はしげしげとそれを眺めた。
先ほど、知盛が唇を当てて水を飲んだ柄杓を。
「いただきます」
望美は躊躇することなく同じ箇所に唇を当てると、残りの水を飲み干す。
間接キスだと、心の中ではひどく動揺していたのだが。
その様子を、知盛は目を細めてじっと眺めていた。
望美は何てこと無いように見せて取った行動のはずなのに、改めて眺められると気恥ずかしくなってくる。
みるみるうちに上気してくる頬を感じながら、望美は知盛に尋ねた。
「明日も来ていい?」
その問いに、知盛は笑みを浮かべたまま答えた。
「ああ、いいぜ。だが、条件がある」
「なあに?」
「明日はお前が起こしに来い。朝から邸の者に騒ぎ立てられるのは、興醒めだ」
「分かった」
望美はにっこりと笑うと、勢いよく立ち上がった。
告げようと思っていたことは告げられなかったけれど、知盛に次に会う約束をすることはできた。
どの運命でも、彼とこうして約束を結んだことなど無かった。
それだけで、幸せな気持ちで満たされていった。