【3】

「知盛、入るよー……」

望美は妻戸を恐る恐る開けると、薄暗い局の中へと踏み込んでいった。
今朝も平家の邸を訪れた望美であったが、昨日とは違い、顔パス状態であっさりと門をくぐる事が許された。
邸の主人の一人でもある知盛が、話を付けておいてくれたのであろうか。
こうして知盛の局へやって来る間も、誰かに見咎められ呼び止められることはなかった。
むしろ、誰にも出会わなかった。
知盛が敢えて人払いをしていたのであるが、望美には知る由も無い。

局の中には几帳がいくつも置かれていて、御帳台と呼ばれる現代で言うベッドのようなものがある。
そこで知盛が寝ているに違いない。
望美は足音を忍ばせ、一直線にそこへと近づいていく。

「知盛、起きてー」

望美が局の中に入り込んだにもかかわらず、知盛は安らかな寝息を立てて眠っていた。
呼びかけても、瞼をぴくりとも動かさない。

「知盛ー」

一向に起きない知盛を望美は揺さぶろうとしたが、はたとその手を止める。
そして無防備に眠る知盛の顔を、じっと見つめた。
知盛の寝顔を見るのは、久しぶりだ。
普段の意地の悪い笑みを浮かべた小憎らしい表情とは対照的な穏やかな寝顔。

「知盛、私…もうすぐ……」

昨日から伝えられずにいた言葉が、無意識のうちに口をついて出てくる。
そうして告げかけたところで、知盛の瞳がゆっくりと開いた。
紫苑色の瞳が、望美の姿を捕らえる。
どきりとして言葉を失ってしまった望美を見つめたまま、知盛はゆるゆると起き上がった。
寝巻き代わりの単衣が肌蹴て、よく鍛えられた胸元が覗いている。
それを直視できなくて、望美は頬を赤らめながら目を逸らした。

「今日も来たからね」
「ああ……」
「……」
「……」

しばらく、お互いに黙り込んでしまった。
先に口を開いたのは、意外にも知盛の方だった。

「見たいのか?」
「え……?」
「衣を替えようと思うのだが」
「……。着替えるってこと?」
「ああ。俺は、お前に見られたところで一向に構わないのだが」
「ちょっと!私が構うから!」

するすると単衣の帯を解いていく知盛の手を、望美は慌てて押さえた。
その望美の手を捕らえると、顔を覗き込みながら知盛は尋ねてきた。
知盛の端正な顔が、目の前にある。

「なんと神子殿は、お手伝いくださるのか?」
「なっ……!」

とんでもないことを言い出す知盛から逃れるように、望美は立ち上がる。

「そ……外で待っているから、早く着替えてきて!」
「クッ…お前は、からかいがいのある女だ」
「バカ!」

早口でそう言うと、望美は妻戸を勢いよく開けて外へと飛び出した。
局の中からは、知盛の押し殺した笑い声が聞こえてくる。

――知盛って、こんな人だったの!?

望美は、局を出たすぐのところにある階にむくれたまま腰掛けた。
この二日間で、これまで知りえなかった知盛の面をたくさん見せられている。
しかし、彼の新しい面を知れば知るほどますます惹かれていく自分がいることを、望美は感じていた。



昨日と同じように、望美と知盛は稽古でひとしきり汗を流した後、二人並んで階に腰掛ける。
水を飲む知盛の横顔を、望美は伺った。

「神子殿は、なぜここに来た?」
「え?」

知盛は前を向いたまま、望美に問いかけてきた。

「お前の望む通りに、戦は終わった。もう剣の腕を磨く必要もないだろう?」
「それは……」

望美は俯きながら答えた。

「知盛に会いたいからだよ……」
「俺に、か?」
「分かってるでしょ?和議の前夜、言ったじゃない……」

和議の前夜剣を合わせた時、素の状態ではとても言えない様な発言をいっぱいした。

「すべてが欲しい……か……」
「うん」

改めて知盛に言われ、恥ずかしさが募ってきた。
心臓が早鐘を打つように動き始める。
それを宥めようと、望美は深呼吸を一回した。

「俺のすべてが…欲しい…ね…」
「……」

その言葉をかみ締めるように、知盛はもう一度呟いた。
望美はもう、返事をすることもできない。
恥ずかしすぎる。
俯いたままでいる望美の方を、知盛はちらりと見遣った。

「飲むか?」
「え?」

徐に水を勧められて、望美は俯いていた顔を上げて知盛を見つめた。
特に感情を読み取ることのできない表情で、知盛は柄杓に入った水を望美に差し出している。

「ありがとう」

手を伸ばし柄杓を受け取ろうとしたが、知盛はそうはさせないように柄杓を持ち上げる。
そして、望美の口元へと知盛自身が水を運んできた。

「このまま飲めよ」
「え……?」

望美は戸惑いながら、柄杓と知盛の顔を交互に眺めた。
知盛に飲ませてもらうだなんて、思いもよらないことだったから。

「じゃあ、お願いします」

観念して望美は、知盛に飲ませてもらうことにした。
柄杓が唇にゆっくりと押し当てられる。
望美の様子を伺うように、知盛は柄杓を傾け水を注ぎ込んでくる。
絶妙な加減で注ぎ込まれる水を、望美はうっとりと目を閉じて、一口ずつ喉を鳴らしながら飲んでいった。

「ん……!」

だが、残り僅かのところでいきなり勢いよく注ぎ込まれ、飲み下しきれなかった水が唇の端から零れ落ちた。
零れ落ちた水は、頬を伝い、首筋へと流れていく。
冷たい感触に、望美は眉根を寄せた。
その上、突然のことだったから水が気管の方へ入ってしまった。

「ごほっごほっ!知盛!」

むせながらも抗議の声を上げると、知盛は心外だというように片眉を上げて言った。

「これは神子殿にとんだ失礼をいたしました」
「もう!」

濡れてしまった頬を拭おうとしたが、その手は知盛によって絡めとられてしまう。
知盛の手にしていた柄杓が、かたんと音を立てて地面に落ちた。
そして強引に望美を引き寄せると、首筋に流れてしまった水を知盛は啜ってきた。

「ちょっ……知盛……」

水を啜った後に、拭うように知盛の熱い舌が首筋を這っていく。
逃れようと身をよじったが、背中に腕を回されさらに引き寄せられて固定される。
首筋を這っていた舌が、頬へと移動していく。
その舌の熱さが、望美の身体にじわじわと伝染していくようだ。
だが、決して不快ではない。
無意識のうちに身を震わせ、唇から吐息を漏らした。
その次の瞬間、望美の唇を知盛はぺろりと舐めた。

「っ……!?」

動揺する望美をあやすように、知盛は背中を撫でながら唇に舌を這わせていく。
望美の唇を味わうようなその行為の後、彼は唇を重ねてきた。
ここまでの反応を見て、望美がこういった行為に慣れていないことを察したのか、唇を柔らかく重ねる口付けが何度も繰り返される。
先ほどまでの強引さとはかけ離れた口付けに、望美は身体の緊張が抜けてくるのを感じた。
そして、知盛がこんな風に気遣ってくれることに喜びを覚える。
もっと強引で勝手な印象を彼に抱いていたから。
もう、知盛に惹かれるだけでは止まらない。
彼のことが、好きだ。
これから先、世界を分かたれようとも。

「なぜ、泣く?」

口付けを終え望美の顔を伺った知盛は、険しい顔をした。
望美ははっとして、自分の頬に触れる。
指先に触れたのは、無意識のうちに溢れていた涙。
慌ててそれをごしごしと拭った。

「何でも無いよ……」

望美は笑顔を作ると、今度は自分から知盛へと寄り添った。
そして、自らの唇を知盛の唇へと寄せていく。
その行動は意外だったようで、知盛は目を瞠った。

「やれやれ、神子殿はまだ足りないのか?」
「私が己の欲望に忠実な女だって言ったのは、知盛でしょ?」
「そうだったな」

知盛はクッといつもの調子で笑うと、望美の後頭部に手を回して引き寄せた。
今度は遠慮することなく、荒々しく唇が重なってくる。
呼吸をしようと喘ぐ望美の唇の隙間から、知盛の舌が入り込んできた。
互いの舌を絡め、唾液を交わす。
荒々しいのにやさしさの感じられる口付けに、望美は夢中になっていく。
蕩けるような口付けとは、こういうもののことを言うのだろう。
知盛とするから、気持ちいいのだ。
朦朧とする意識の中でそんなことを考えながら、望美は知盛の背中に自分の腕を回した。

口付けを終える頃には、望美の身体はすっかり力が抜けてしまった。

「明日も、来い」

望美は力の抜けた身体を知盛に委ねて、ひたすら首を縦に振ることしかできなかった。