格子戸の隙間から入り込んでくる西陽にも、そこはかとなく春の気配を感じ始める。
今日、源氏と平家の間に和議が結ばれた。
ここは、平家一門が京で逗留するために用意された邸。
その邸の一角にある局……平家の総領である還内府の控えの間に望美はいた。
険しい顔でだんまりを続けている還内府こと幼馴染の有川将臣を前にして、望美は俯いたまま床板に映る長い影法師を眺めていた。
学校の先生に説教されている子どもは、こんな気分なのだろうか。
ふと、そんなことを考えたりもした。
長い沈黙を破ったのは将臣の方。
限りなく深いため息を一つ、将臣は吐く。
そして、一言一言かみ締めるように言った。
「まあ、なんと言うかだ……。こんなこと言いたくねぇんだけどよ……。悪いことは言わない。あいつは、止めておいた方がいいぜ?」
その言葉を聞いた瞬間、覚悟していたとは言え望美はがっくりとうな垂れてしまった。
先ほどの将臣と同じように、望美も限りなく深いため息を一つ吐く。
この恋は、あまりに前途多難すぎる。
とこしへ
将臣の言うあいつとは、言うまでもなく平知盛のこと。将臣にとって、異世界でできたちょっとどころではなく、かなり癖のある年上の”弟”。
その”弟”と幼馴染の少女がいつの間にやら想い合う(?)仲になっていたことが和議後に発覚したのだ。
それは、源氏や平家だけでなく、和議に同席していた朝廷にも衝撃の走る一大事だった。
片や源氏の神子で、もう一方が平家の大将の一人。
この二人が、いつ、どこで、どうして?
誰もが抱く疑問だ。
二人のことをよく知る将臣が、事情聴取と称しこうして望美と向かい合うことになったのも当然のことだ。
「しかし、解せないな……。さっきから何度も聞いているけど、お前らいつの間に出会っていたんだ?」
「えーっと……正式には、昨日……かな」
「だからそこが解せないんだよ。昨日会ったばっかでこんなことになるか?普通。それに、正式にはってどういう意味なんだ?」
「あの……昨日。うん、昨日の夜だよ。うまく説明できないんだけど……」
「あー……もう、仕方ねぇな……」
要領を得ない望美の説明に、将臣は苛立ちながら前髪をかきあげた。
望美は俯いたまま、心の中で思った。
言えるはずが無い……と。
さまざまな時空を越えてきたけれど、どうしても救うことのできなかった知盛。
必ず壇ノ浦の海に沈んでいった彼。
そんな彼を救いたくて、すべてが欲しくて彼が生き延びる運命を求めた。
そして、和議前夜に一晩中剣を交わし、やっと彼を手に入れただなんて。
将臣はこれ以上望美に聞いても無駄だと判断したのか、苛立ちの表情を収めそのまま腕を組む。
そんな将臣の様子を、望美は恐る恐る顔を上げて伺った。
「将臣くん……」
「なんだ?」
「逆に私から聞いてもいい?」
「いいぜ」
「何で、知盛をお勧めできないの?」
「そう来たか……。聞きたいのか?」
「うん。勿論」
遠慮がちの言葉掛けとは裏腹に、望美の表情は真剣そのものだった。
無意識のうちに、身を乗り出して将臣ににじり寄ってきている。
こんな幼馴染の少女の表情を見るのは初めてで、将臣は思わず目を瞠ってしまった。
「聞いたら絶対後悔するぜ。……って言うか、むしろ引くぜ?」
「それでも構わないから」
将臣は腕を組んだまま、一気にまくし立てるように言った。
「知盛は、顔がいいかもしれねぇ。それに剣の腕も立つ。それは認める。でも、それだけじゃカバーしきれないくらい、あいつはルーズな部分が多い。朝は弱くて、放っておけば昼近くまで寝ている無精者だ。何やるにしても、すぐに”だるい”って言うし。それに、女関係もルーズだ。いや……後腐れは無いようだからルーズとは言い切れないが、あいつのせいで泣いた女は数知れずだぜ。やり逃げもいいところだ。あいつと付き合ったらお前が苦労するのが目に見えているんだ。だから、お勧めできねぇんだ」
そこまで言うと、望美の反応を伺うように将臣は、目の前に座る彼女の表情を見やった。
さぞや落胆の表情を浮かべているだろうという将臣の想像とは違い、望美はきょとんとしたような表情を浮かべていた。
「何だ…。そんなことなの?」
あっけらかんと述べられた彼女の言葉に、将臣はひっくり返りそうになってしまった。
「そんなの、見ていれば分かるし……」
その一瞬、望美の表情が、しゅんとした気がした。
だが、すぐに将臣をきっと見据えると言った。
「だから、それくらいのことじゃ引かないから。将臣くんが後悔するとか思わせぶりなことを言うから、実は知盛に子供がいたとかだと思っちゃったじゃない。それくらいじゃないと、今さら驚かないよ」
望美の言葉に、将臣は思わず頭を抱えてしまった。
「はぁ……」
「何よ?」
頭を抱えたまま、将臣は呟いた。
「お前らって、似たもの同士なのかもしれねぇな……。あいつには、お前みたいな女が案外合うのかもしれねぇ……」
「え?」
「まああんな奴だけど、俺の剣の面倒を見てくれたのはあいつで……。意外と面倒見がいいみたいだし……。いつも一言多いけど、やるべきことはきちんとやるし……」
「将臣くん、何言ってるの?」
将臣があまりに小さな声で話すので、望美は眉根を寄せて思わず問い返した。
だが……。
「還内府……いえ、将臣殿」
簀子縁の方から、時間切れを告げる呼び出しの声。
「経正か?」
「はい。先ほどから、尼御前が将臣殿のことをお待ちでして……。そろそろ神子殿とのお話も終わられたのではと、何度もお尋ねになられ待ちわびていらっしゃいます。ですので、こうして呼びに参りました」
「分かった。わざわざサンキュ」
尼御前という名前を聞いた瞬間、将臣の顔は幼馴染の少年の顔から、平家の総領の顔になる。
将臣は立ち上がると、経正に声をかけた。
「経正。悪いけど頼まれてくれないか?こいつ…望美を、梶原景時の邸まで送り届けるように車を用意して欲しいんだ」
「御意」
「頼むな」
経正の返事に頷くと、将臣は望美の方を向く。
「悪かったな、こんな時間まで引き留めちまって。じゃあ、またな」
「うん」
将臣が去っていった後、望美は経正に導かれ車宿へと向かった。
「お引き留めしたのはこちらでしたが、急かしてしまい申し訳ありません」
「いえ、そんなこと!こちらこそわざわざ車の用意までしていただいて……」
長く続く渡殿を歩いていくと、遠くから鉄と鉄のぶつかり合う……剣を合わせる音が聞こえてきた。
「あの音は……」
剣を打ち付ける微妙な力加減で生じる音の違い。
望美には分かった。
それが、誰の剣が発している音なのか。
はたと足を止めた望美の様子に、経正は気がついたようだった。
「あの音は知盛殿ですね。ご覧になっていかれますか?」
「え?あ……その………」
「遠慮なさらなくてもよろしいのですよ」
「じゃあ、お願いします」
稽古の邪魔になるかもしれないという思いも一瞬だけ頭を過ぎったが、経正の言葉に望美は甘えてしまうことにした。
これまで知り得なかった知盛の日常を知りたいと言う欲望には抗えない。
「経正さん。あの…遠くから少し見るだけでいいですから」
「承知いたしました」
経正の後について、気配を殺しながら稽古の音のする方へと向かっていく。
徐々に近づいてくる剣のかち合う音に、胸が高鳴ってくる。
近くに、知盛がいるという事実に。
「今日のお相手は、末の弟君のようですね」
「末の……弟?」
「ええ、重衡殿です」
「え!?重衡さん?」
思わず大きな声を出してしまい、望美は慌てて自分で自分の口を押さえた。
口を押さえたまま、経正の後ろからおずおずと鍛錬中の二人を覗いた。
二本の太刀を構える知盛に、方天戟を構える重衡。
それぞれの隙の無い構えは、ため息が出るほど美しい。
壇ノ浦の海に必ず消えてしまった知盛、南都焼討の重罪を背負い苦しみ続けていた銀としての重衡。
そんな彼らの姿を見てきた望美にとって、こうしてありふれた日常の中で彼らが平穏に過ごしているのを見るのは感慨深いものがあった。
重衡が、一際勢いよく知盛へと仕掛けていく。
クッと歯を噛み締めながら、知盛はその剣を受け止めた。
剣をかち合ったまま、二人の動きがしばらく止まる。
それは、互いの力が均衡していることを表していた。
「兄上。お客人のようですよ」
「ああ」
そのままの体勢で重衡が囁きかけたかと思うと、互いに剣を引いて稽古は一旦中断された。
そして、二人揃って望美たちの方を振り返った。
「知盛殿、重衡殿。こちらは、源氏の神子殿です。ぜひ、お二人の稽古をご覧になりたいとのことでご案内いたしたところです」
「あ!その、お邪魔……しています」
経正にそう言われて、望美は慌てて頭を下げた。
まず言葉を掛けてきたのは、重衡の方だった。
「こんにちは、神子様。お噂は兼ねてより伺っておりますよ」
「あ…いえ。こちらこそ、稽古の途中にすみません」
人当たりのいいやんわりとした極上の笑みは、銀の時と変わらない。
どぎまぎしながら、望美はもう一度頭をぺこりと下げた。
すると、それまで黙っていた知盛が人を食ったような笑みを浮かべると、うやうやしくお辞儀をしながら近づいてくる。
「これはこれは、神子殿。ようこそいらっしゃいました」
「!!?」
「拙き剣をお見せいたしまして、心苦しい限りです。聞くところによりますと、神子殿は舞うように剣を振るわれるとのこと。その評判の剣を、機会がありましたらぜひ私にも見せていただきたいところです」
知盛の反応に、望美は思わず100メートルほど飛び退りそうになった。
それくらいの衝撃だった。
いつもの気だるげなものとは違い、ゆっくりとではあるがきちんとした口調で喋っている。
望美に向けて、”あの知盛”がである。
有り得なさ過ぎる……。
望美は言葉を失い、金魚のようにパクパクと口を動かした。
これまで見たことの無い知盛の一面を見せられ、動揺が隠せない。
何だか気恥ずかしくて、みるみるうちに頬が上気してくる。
「神子殿は、お加減がよろしくないようで……。長引いた和議の話し合いで、お疲れに?」
くっと口の端をつり上げて、知盛は言った。
そして、簀子縁に立つ望美の傍へさらに来ると、すっと頬に触れてきた。
知盛のしなやかな指の感触に、望美は思わず後ろに引いてしまう。
「少し、お熱があるようですね」
「だ…だ…だいじょうぶ……です!」
「おや?そうですか?」
知盛は、片眉を上げてそう言い放つ。
すると次の瞬間、知盛の表情が変わった。
彼の瞳が、獲物を狩る肉食獣のような鋭い光を放つ。
だがその表情の変化は、傍にいる望美にしか分からない。
知盛は徐に望美の腕をぐっと掴むと、己の方へと引き寄せる。
突然のことにぐらりと揺れた望美の耳元に唇を寄せると、知盛は囁いてきた。
「いつでも来い。本当のお前を見せに……」
「!!!」
短くそう言うと、知盛は望美を解放した。
「経正、神子殿はお疲れのようだ。早急に送り届けた方がいいだろう」
「はい。それでは、神子殿参りましょうか」
「え!?あ!はい」
居た堪れなくて、望美は経正にしたがってそそくさとその場を去っていった。
残されたのは、兄弟二人。
「兄上もお人が悪いですね。神子様のように清らかな女性(にょうしょう)で、あのように戯れられるのはいかがかと存じますが」
「女のことで、お前にそのような忠言を受けるとはな、重衡」
「……兄上には、適いませんね」
「クッ……」
ため息をつきながら重衡が首を振るのを見て、知盛は嬉しそうに笑った。
望美に対する時、そして今……。
こんなに楽しそうな知盛の表情を見るのは、弟である重衡も初めてだった。