【第弐夜】

「お帰りなさいませ。…………鞄を、お持ちします」

帰宅すると今日も玄関先で、はるは進を迎えてくれた。
だが、心なしかいつものような明るさがない。
出迎えの挨拶をした後の妙な間からも、それを伺うことができる。
よくよく見つめてみると、熱があるかのように彼女の顔が赤い。

「はるさん、元気が無いけど、体調でも悪い?」

熱を確かめるため、額に触れようと手を伸ばしたところ、はるは、はっとして慌てて後ろへ下がった。

「あっ!!!あの、大丈夫です。ご心配をお掛けして、申し訳御座いません!」
「それなら、いいんだけどね」

彼女に触れることの出来なかった手が宙に浮いていたままで、気まずい思いを抱えつつ下ろした。

「進様。改めて、鞄をお持ちします」
「じゃあ、お願いするよ」

鞄を受け渡すときに、二人の指先がかすかに触れた。

「ひいっ!!?」

その瞬間、はるが頓狂な声を上げて叫び、手を引っ込めた。
ぱたんと音を立てて、進の鞄が地面に落ちた。

「あ……あぁ!!!重ね重ね、申し訳御座いません」

はるは慌てて鞄を拾い、付いてしまった埃を払う。
真っ赤に上気した頬でそうしている様子を見つつ、進はようやく彼女の様子がおかしい事の次第を理解した。

――彼女は、どうしようもないほど意識している。自分を……そう、進のことを。

「本当にすみません……。変な声まで上げてしまい、お恥ずかしい限りです」

俯いたまま一気に言うと、はるはそそくさと2階へ続く階段を上っていく。
いつもなら進のペースに合わせて歩くというのに、今日はそこまで頭が回っていないようだ。
無意識のうちに笑みを浮かべながら、進はその後に続いた。

いつもどおり、進の部屋に鞄を運び終える。

「進様。私は、食堂で準備をしてまいります」

いつもなら着替えまで手伝うというのに、そのまま部屋を出て行こうとするはるの腕を、進はとらえた。

「はるさん。昨日の約束を忘れてしまったの?」
「あ……あの、え、え、わ、忘れた訳では……無いのですが……」

目を泳がせているはるの顎をとらえると、進は唇を寄せていく。

「恋仲になったのだから、そろそろ慣れて欲しいな」
「は……はい。そうですよね!善処……します……」
「目を閉じて……」

進が促すと、はるはぎゅっと目を閉じた。
唇は引き結ばれ、身体も緊張のせいか硬直させている。
無垢な少女に対して、大人が悪いことを仕掛けているようだと、思わず苦笑が漏れた。
しかし、それでもやめることなど出来そうにない。
そのまま、唇を重ねた。

「ん……」

重なると同時に、うめくような声がはるの喉の奥から聞こえた。
相変わらず、唇は引き結ばれたままだ。
その唇を宥めるように、進は舌先でそっと突っついた。

「ひゃっ、あ……」

びくんと肩を震わせて、はるは微かに声を上げた。
いったん、唇を離す。

「……嫌?」
「い、いえ……。ただ、くすぐったかっただけで……」
「それじゃあ、いいよね」
「え?い……いいって、進様……んむ!?」

はるが進の言わんとする意味を理解する前に、再び唇を塞いだ。
先ほどよりも、深く、激しく。
熱く柔らかな互いの舌先が触れ合い、進はひどく興奮を覚えた。
興奮のまま、はるを貪るように唇を吸う。

恋に落ち、こうした行為に、自分が溺れてしまうとは……。
進にしてみれば、恋とは、読み耽ったいくつかの恋愛小説の中だけの出来事であり、ひどくややこしいもののように感じていた。
だから、自分自身はそれから随分遠いところにいる気がしていた。
しかし、こんな風に激しく相手を欲するような恋に落ちてみて初めて、それは意外と自分の近くにあったことに気が付いた。
ややこしいものであるにも関わらず、それを心地よく受け止めているのも事実。
自覚してしまった以上、この恋を止めることなど出来そうにない。

「す……進様、私はそろそろ食堂へ行かなければ……」

唇を離すと、長い接吻のせいで上がってしまった息を整えながら、はるはそう言った。
この状況で、仕事のことを口にできるとは。
彼女の使用人としての義務感が、余韻に浸る間もなくそのようなことを言わせるのだろう。
だが、その瞳は潤み、頬は赤く上気している。
どう見ても、仕事へ戻れるような顔ではない。
普段は素朴な少女らしい愛らしさのある彼女だけれど、今の顔は艶めいた大人の女のものだ。
こんな顔で、仕事に戻してしまって大丈夫なのだろうか。
進の心配に気づく様子もなく、はるは逃げるように踵を返すと、部屋から出て行こうとドアノブを回し扉を押した。
しかし、押せども押せども扉は開かない。

「……あれ、どうしてでしょう?開きません!無意識のうちに、鍵を掛けてしまったのでしょうか?」

ひどく動転した様子で、はるはガタガタと扉を何度も押した。
焦るはるとは対照的に、進は落ち着いて言った。

「はるさん。その扉は、引いて開けるんですよ。いくら押しても開きません」

その言葉を聞いた瞬間、はるは固まった。
しかしそれも一瞬のことで、すぐに扉を引いていつもどおりに開けた。

「す……すすす、すみません。私としたことが、ついうっかり……」
「大丈夫?」
「はい!大丈夫です。それでは、お先に失礼致します!」

ぺこぺこと頭を下げながら、はるは小走りで去っていった。
開けた扉を閉じていくのを忘れているところからも、常とは違う動揺を感じ取ることができる。
途中でつまずいて転びそうになった後姿に、思わず苦笑してしまう。
無事に食堂までたどり着けるのだろうか?
あれだけ動揺されてしまうと、自分がとても悪いことをしている気がしてくる。
彼女の思いを無視して、行為に及んでしまっているような……。

進とはるが、相思相愛であることは間違いない。
けれども、相手のことを激しく求めているのは、自分だけのような気がしてならない。
はるは、そこのところをどう思っているのだろうか?
進に求められて、嬉しいと感じてくれているのだろうか?
彼女の心を、知りたい。
しかし、彼女の心の扉は閉ざされたままで、開けて本当の心を覗き見ることは、今の状況では叶わない。

そこまで考えたところで、進はふと気が付いた。
そう、自分は扉を押すばかりではなかったかと。
引けば開くかもしれない扉を。
先ほど、必死で引かなければ開かない扉を必死で押していた彼女のように。
そこで、情報屋の有田喜助から以前聞いた話を、思い出した。

――押して引く作戦

はるに気持ちを伝えることができず困っていたところで、喜助に相談して教えられた作戦。
あのときとはかなり状況が違うが、ここは一つ、試してみる価値はあるのかもしれない。
しかし、喜助は今ここにいないから、具体的にどうするべきか自分で考えるしかない。
さて、明日からどうするか……。

そんなことを考えながら、進は警官服の上着を脱ぎ捨てた。