【第参夜】
さて、いよいよ今夜から”押して引く作戦”が始まる。
成功するかどうかは分からないが、進なりに考えた方法で実行することにした。
仕事から屋敷に帰ると、はるに出迎えられる。
極力、進と視線を合わせまいと頬を染めて俯くはるに苦笑しつつ、鞄を預ける。
そして、着替えのために自室へと向かった。
そこまでは、昨日までどおりだ。
しかし、昨日までどおりなのはここまで。
「ありがとう。着替えたらすぐに食堂へ行くから、はるさんは先に行っていてください」
「……え?」
部屋の前まで来たところで掛けられた進の言葉に、はるは目を見開いてきょとんとした表情を浮かべた。
「では、また後で」
「は、はい……」
何か問いたげな彼女の視線を無視して、進は鞄を受け取ると、はるを残して自室へと入った。
扉を閉めると同時に、ため息をひとつ吐く。
そう、これが進の考えた”押して引く作戦”。
昨日までは、押しまくった気がする。
だから、今日から引いてみるのだ。
さて、これがどんな結果を生み出すのか。
それ以前に、自分がどこまで我慢することができるのかが、問題かもしれない。
はるに触れたいという衝動を我慢することは、想像していた以上につらいものがある。
しかし、これも作戦なのだから仕方がない。
成功するか否かは、進次第だ。
何はともあれ、今日の作戦は無事に終了したことにほっとした。
【第四夜】
「お帰りなさいませ……」
帰宅した進を出迎えると同時に、はるはじっと進の顔を見つめてきた。
目を合わせようとしなかった昨夜までのことを思えば、大きな進歩かもしれない。
内心ほくそえみながら、進は鞄を預けると自室へと向かった。
「はるさん、ありがとう。じゃあ、またあとでね」
昨日と同様に、部屋の扉の前で鞄を受け取る。
そして、何事もなかったかのように部屋へ入ろうとした。
「……あの!進様」
すると、はるが呼び止めてきた。
振り返ると、大きな黒い瞳が、思いつめたような光を湛えて進を見つめていた。
「どうかした?」
「……」
進が問い返すと、はるは目を瞬かせながら言葉に詰まる。
そして、ゆっくりと目を伏せた。
「い……いえ、何でもないです。し……失礼致します!」
途端にかっと頬を赤く染めて、はるは慌てて踵を返すと階段をばたばたと駆け降りて行った。
あんなに音を立てて走って、あとで使用人頭の千富に怒られなければよいのだがと内心心配しつつ、進は自室へと入った。
”押して引く作戦”は、効果が出てきているのか、それとも狙いとは逆の方向に向かっているのか……。
結果は、まだ見えてこない。
とりあえず、しばらく続けてみようと決意をし、進は鞄をベッドの上に放り投げた。
【弐夜トンデ、第七夜】
はるに触れなくなってから、何日経ったのだろう。
数えてみれば大した日数ではないのに、随分長いこと触れていない気がしてくるから不思議なものだ。
毎日顔を合わせているというのに触れられないとは、進にとってこれはかなりの拷問だ。
もう、”押して引く作戦”などどうでもいいから、触れてしまおうかとも思えてくる。
しかし、もうひと踏ん張りな気もしているから、今日も作戦を続行させることにした。
「今日もありがとう。では……」
昨日までと同じように進は鞄を受け取ると、自室へ入ろうとした。
すると……。
「進様!あ……あの、お待ちください……」
はるが、切迫した声を上げると進の腕をとらえてきた。
進の腕を掴むはるの手が、微かに震えている。
「どうしまし……」
振り返ったところで、進は言葉に詰まった。
はるが、泣いていた。
潤んだ瞳から零れた涙が、彼女の丸い頬を次々に伝っていく。
突然の涙に、進は動揺した。
「お尋ねしてもよろしいですか?」
「どうしたの?俺が、答えられることであれば……」
「進様…………。私が……私が至らないせいですか?……至らないから、もう私のことなどお嫌いになってしまわれたのですか?」
「はるさん……」
正直に、”押して引く作戦”をしていましたなどと言えるはずもない。
まさか、はるをこんな風に泣かせてしまう結果になるとは……。
しかし、気を取り直してはるに尋ねた。
「俺が、はるさんを嫌うなんてあり得ない。なぜ、そんなことを思うの?」
「それは……」
涙を手の甲で拭いながら、はるは俯いた。
「進様は、夕食の前に毎日とおっしゃいました……。それなのに……」
「……毎日?それって、なんだったかな?」
具体的な答えを引き出そうと、進はさらに問いかけた。
まさか彼女は、心待ちにしていたと言うのだろうか。
「……毎日、接吻をと……」
ひどく言いにくそうに、はるは小さな声で進の望みどおりの言葉を呟いた。
その言葉を聞いた瞬間、進は己の限界を感じた。
僅かに残された理性ではるの腕を掴み、部屋の中へと引き入れる。
後ろ手で扉を閉めると、そのまま荒々しく唇を重ねた。
自分の中に、こんなに激しい衝動が眠っていたとは……。
もう、”押して引く作戦”なんて、どうでもいい。
そんなことをして、彼女の気持ちを量ろうとしたことが、過ちだったのだ。
大切な恋人を泣かせてしまうとは、何と愚かなことをしていたのか。
久しぶりの接吻は、あっという間に深いものになっていく。
はるの両手が、惑うことなく進の背に回ってきて、ぎゅっとしがみ付いてきた。
その仕草がいとおしくて、進は何度も角度を変えて、はるへの接吻を繰り返した。
ずいぶん長い時間そうしていたが、そろそろはるを戻してやらないといけないことに気が付いた。
名残惜しい思いを抱えながら、進は唇を離す。
しかし、はるはいやと言うように首を振ると、背に回していた両手を、進の頬に添えてきた。
「進様……。お願いします。まだ、やめないでください……」
そして、今度は大胆にも彼女から唇を寄せてきた。
身長差があるために背伸びをしているせいか、それとも緊張のせいか、重なった唇が微かに震えている。
恥じらって逃げていた数日前のことが、嘘のようだ。
進は感動を覚えながら、はるの身体を思いきり抱き締めた。
――”押して引く作戦”、大いに効果あり。
今度喜助に会ったら、礼でも言っておくべきだろうか。
そんなことをふと考えたが、そんな先のことよりも今は彼女との接吻に溺れていたい。
時間が経つのも忘れて、進ははると接吻を交わした。
華ヤカで一番好きな進様のお話でした!
宮ノ杜家のご兄弟は、恋愛相談する相手をいろいろ間違えている気がします。
進の相談がとにかくおかしかったので、ちょっと妄想を広げてみました。