恋トイフモノ
【第壱夜】
「お帰りなさいませ!鞄をお持ちします」
宮ノ杜家の屋敷に帰ると、真っ先に玄関前で迎えてくれるのは、進の専属使用人である浅木はるだ。
彼女は、進の専属使用人であると同時に、恋人でもある。
進の鞄を持ち、少し後ろを歩いて部屋まで運んでくれるのも、もう手馴れたもの。
帰宅後の世話だけでなく、屋敷にいる間の進の世話は、すべて専属である彼女が担っている。
恋人に専属としてすべての世話をしてもらえるのは、進にとって至極幸福なことであったが、同時に不本意なことでもあった。
そう、恋人であるはるを、いつまでも使用人として使っていることが、だ。
二人の仲は、すでに周囲の知るところであり、当主である父・玄一郎の許可もすでに得ている。
しかし、いざ結婚となるとすぐにとはいかないのが、名家に生まれたが故の定めか。
夏頃を目途にとはなっているものの、現状、表向きは主と使用人という関係のままだ。
「進様。食堂で夕食の準備がもう整っていますが、いかがなされますか?」
「そうだね……。いただくことにするよ」
「畏まりました」
脱いだ上着を片付けるはるの後姿を眺めながら、進は考えた。
ここまでのやりとり。
彼女は使用人なのだから、仕方のないことかもしれない。
しかし、もう少し近づいてくれてもいいと思う。
物理的な距離の話だけではない。
心理的にも、恋人らしい距離で……。
そこが、何だか物足りない。
物足りないからこそ、ふと思いついたことを実行に移す。
「はるさん。夕食の前に、いただきたいものがあるんだけど」
「はい?申し付けていただければ、すぐにご用意しますよ」
「改めて用意する必要はないんだ。君がいればできること」
「私が……?いったい、なんですか?」
「ちょっと、こっちに来て」
進に手招かれて、はるは小首を傾げつつ近づいてきた。
何も分かっていない、無垢なその表情。
そこですかさず彼女の腕を掴むと、少々強引かとも思える力で引き寄せる。
進がそのような行動に出ることなど想定していなかったせいで、あっさりとはるは進の腕の中に納まった。
「あ……あの……進様!?」
目を白黒させるという表現がぴったり当てはまるような表情を浮かべて、はるは進の腕の中で身じろいだ。
そんな彼女の顎を進は指先で捉え、その顔を覗き込む。
二人がこんなに接近するのは、屋敷内においては滅多にないことだ。
「夕食の前に、いただいておきたいんだ。はるさんを」
「はい……?私ですか?」
はるはまだ事態を理解していない様子だが、待ち切れない進は、彼女の唇に自分の唇を寄せる。
ようやく進の言わんとすることを察して、はるは焦った様子だ。
「え……えっと……進様!せっかくですが、私では、お腹を満たすことはできないかと思います!」
「そうだね。でも、お腹をいっぱいにするために、君をいただく訳じゃないよ」
「で……でも、今は仕事中で……」
「いいから、少し黙りなさい」
尚も言い訳しようとする小憎らしい唇を塞ぐように、唇を重ねる。
途端、はるの肩がぴくりと震えた。
初々しい反応を見せる彼女を愛しいと思う気持ちに任せ、進は唇を重ねたまま彼女の背中に腕をそっと回し、華奢な身体を更に引き寄せた。
進とはるが、こうして接吻を交わすのは、今日が初めてではない。
休日にともに出かけた帰り、人目のつかない場所でそっと交わしたのが、これまでの接吻。
母の違う兄弟たちに話せば、意外に思われるかもしれないが、毎日主と使用人として顔を合わせているにもかかわらず、進とはるは、屋敷でこういった行為に踏み切ったことはない。
彼女の中で、屋敷にいる間は仕事をしているという意識があるのか、恋人らしく振舞うことはまずないからだ。
そう、先ほどまでのように。
公私をわきまえることは大切であると進も思っていたから、これまで強引に行為に及ぶことはしなかった。
しかし、恋人になってから2ヶ月は経とうとしているので、そろそろ……という思いもあったから、今日は思い切って行動に出てみたのだ。
かすかに震える柔らかな彼女の唇の感触は、進に眩暈を覚えるほどの恍惚感を与えてくれる。
それは、はるにとっても同じことだったようで、唇を離すと同時に、どちらともつかず熱い吐息が漏れた。
接吻の余韻のぼんやりとした頭で彼女の顔を見ると、はるの頬は上気し、目は心地よさから潤んでいる。
屋敷内での強引な行動を咎められるのではと思っていたが、彼女もまんざらでもない様子だ。
これ幸いと思った進は、宣言した。
「うん、決めた。これからは、夕食の前に必ずはるさんをいただくことにするよ」
「それって、毎日ってことですか?」
「そんなこと、決まっているだろう?はるさんは、俺とこうするの嫌?」
「そんなことありません!……私は、進様のことをお慕いしていますから……」
「じゃあ、問題ないね」
にっこり笑いながらそう言うと、進はまたはるの唇へと自身のそれを近づけていく。
「俺は、君にもっと近づきたい……」
「進様……」
「結婚したら、唇だけで済まないかもしれないよ。……なんてね」
「……まさか進様、酔っていらっしゃいますか?」
「いや。今夜は、一滴も飲んでいない」
「そ……そうでございますか?」
「そう、まったく酔っていない」
再び、二人の唇が重なる。
はるは抵抗することなく、今度の接吻を受け入れた。
唇は、人間の皮膚の中でも殊に薄い場所だという話を聞いたことがある。
そこを触れ合わせると言うことは、今の状況で二人が出来得る最大の接近。
しばらくはるの唇を堪能したところで、進は名残を惜しみつつも離した。
「いいよね?」
「は……はい」
恥じらいの余り、目を伏せたままはるは頷いた。
「じゃ、じゃあ、先に食堂へ行って準備をしておきますので、失礼致します」
進のことを直視できないのか、はるは一礼してそそくさと部屋を出て行った。
帰宅後の接吻の約束を取り付けられただけでも、大きな一歩だが、恋人としての距離と考えるとまだまだなようだ。
「徐々に……と言ったところか……」
彼女が出て行った扉を見つめながら、進はため息をついた。