ロイヤルストレートフラッシュ
廊下の突き当たり近くに、探していた人の姿を偶然にも見つけて、春歌は鞄をぎゅっと胸に抱えた。
視線の先にいる人。
彼の名前は、寿嶺二。
これから会う約束をしていた人。
はやる心のまま、足は自然と小走りになってしまう。
今日、春歌は午前中いっぱいレコーディングルームにこもって、いつもお世話になっている作曲家の先生のお手伝いをしていた。
そして、そのお手伝いが終わった後も、そのままレコーディングルームに残り、今度は自分の仕事である新曲のデモ作りをした。
それは、もちろんパートナーである嶺二に歌ってもらうための曲だ。
長時間の作業に疲れていたけれど、とにかく早くデモを完成させたかった。
正所属になったばかりの作曲家の春歌が、事務所でも中堅アイドルの位置にいる嶺二のパートナーとなって曲を作れるだけでも夢のようなことだ。
こうして、パートナーとしていられるのも、二人が組んで出場した歌謡祭での成功があったからこそ。
その上、世間には公表できないけれど、二人は恋人関係でもある。
公私ともにパートナー。
大好きな嶺二を輝かせる曲を作るためだったら、春歌は、多少の無理も厭わない。
そして、ようやく新曲のデモが出来上がり、時間のあるときに聴いて欲しい旨を嶺二にメールをしたところ、すぐに返信が着て、もうすぐあがりだから今日のうちに聴きたいとのことだった。
確認してみたところ、嶺二は同じビル内のスタジオでバラエティの収録を行っているとのことで、すぐに身動きのできる春歌がデータを持って嶺二のところへ行くこととなった。
指定された楽屋へと向かっていたのが、今。
その途中で、ちょうど収録を終えたばかりの嶺二の姿を見つけたのだ。
「れいちゃーーん、ちょっと待ってーー」
「あ、はーい。なんですかー?」
しかし、春歌よりも先に、別の人が嶺二に声を掛けてしまった。
春歌は、歩みを止める。
正式なパートナーになる以前に、嶺二の付き人をしていた経験もあるので、声をかけた人物が誰なのか、春歌も知っている。
彼は、嶺二がいつもお世話になっているバラエティ番組のプロデューサーだ。
邪魔にならないように、春歌は廊下のすみに寄ると、二人の話が終わるのを待った。
収録上がりで周囲がざわついているせいか、大きな声で交わされる言葉が、自然と春歌の耳に入ってくる。
「れいちゃん。このあと……っていうか、今夜、暇?」
「そうですねー。ぼくは、これで今日の撮影はあがりです。このあとちょっとあるけど、夜には空いてるよん!なになにー。何かおもしろいことがあったりして?」
「れいちゃんとやっている番組が好調でさ、次クールも放送続投。次の改編期にスペシャルの放送も決定したでしょ。でさ、そのゲストで、あっちゃんが入ることになったのは知ってるよね?」
「もっちろーーん。かわいこちゃんなアイドルがゲストで来てくれちゃうんだから、れいちゃんはやる気全開!ハッスルしているよ」
「だよねー。でさ、今夜親睦会をやりたいんだけど、来てくれるよね?」
「OK!なるほど。そういうことなら、大歓迎!」
嶺二は、プロデューサーの誘いに、迷うことなく承諾の返事をした。
仕事を続けていく上で、こういったお付き合いは大切だから、嶺二が承諾の返事をすることは想定の範囲内だ。
今夜は予定が入ってしまったんだと、ちょっぴりさびしい気持ちもしたけれど、それは仕方のないこと。
それに、嶺二はそういったときも必ず春歌に連絡をしてくれるので、不満や不安を感じたことはない。
「よっし!れいちゃんも、参加決定ね。また場所と時間は後で連絡するから」
「はい。よろしくですっ!」
「あっちゃんも喜ぶよ。あの子、君にすごくなついているでしょ。れいちゃん、面倒見がいいし」
「あはは。れいちゃんは、みんなのおにいさんですから!前に共演したとき、面倒を見たって言うよりも、ちょっとちょっかいを出しただけなんだけどねー」
「またまたー。そんなこと言って、れいちゃんが面倒見のいいこと、知ってるんだからね」
そこで言葉を切ると、プロデューサーは少しだけ声のトーンを落として、嶺二に話しかける。
でも、周囲にはまる聞こえだ。
「それに、ここだけの話……。結構、お気に入りなんじゃないの?向こうもれいちゃんのこと、気に入ってるみたいだし」
「あはは。ノンノン。気持ちはありがたいけど、れいちゃんは、いつだって1億人のガールたちのアイドル!味方だよん」
プロデューサーの下世話な言葉を笑顔で適当にかわしながら、嶺二は話を続けている。
しかし春歌は、その声が徐々に遠ざかってくるような、眩暈にも似た感覚を覚えた。
鞄を、さらにぎゅっと抱きかかえる。
そうしないと、体がバラバラになってしまいそうだった。
胸が苦しい……。
嶺二の恋人になってから、不満や不安を感じたことはない。
それは、嘘じゃない。
でも、それは春歌が、現実に気づいていなかっただけなのかもしれない。
寿嶺二という人は、面倒見がよくて、やさしくて……。
それだけじゃない。
間違ったことをしたときは、きちんと正してくれて……。
この世界の楽しさと厳しさ、両方を教えてくれる大人の男の人。
それは、初めて会ったときからずっと変わらない印象で、春歌はそんな嶺二を尊敬していて……。
その気持ちは、いつの間にか恋に変わっていた。
だから、春歌のように、他の女の子が嶺二に恋してしまう可能性は十分にある。
二人の話に出ていたアイドルの少女の名前は、春歌も知っている。
今、人気絶頂のアイドルだ。
事務所は春歌や嶺二と違うけれど、雑誌の人気投票でも、いつも必ず上位に食い込んでくる子。
ーーかわいこちゃん
ーーすごくなついている
ーーちょっとちょっかいを出しただけ
ーー結構、お気に入りなんじゃないの?
先ほどまで聞いていた会話が、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。
振り払おうと首を振ったけれど、消えてくれそうにない。
モヤモヤとした得体の知れないものが、春歌の心の中に広がっていく。
嫌だ。
苦しい。
こんな気持ち……。
こんな状態で、嶺二に会うことはできない……。
少し落ち着いてから出直してこようと思った春歌は、気づかれる前に遠ざかろうと、そろそろと踵を返した。
「おーい!後輩ちゃん、どこ行くの?」
でも、一番見つかりたくない人に見つかってしまった。
びくっと震えると同時に、手が滑る。
抱き締めるようにして持っていた鞄を、思わず床に落としてしまった。
「めんご!びっくりしちゃった?」
嶺二は駆け寄ると、すかさず鞄を拾って、春歌に手渡してくれた。
「あ、ありがとうございます!」
お礼を言いながら、春歌は微笑みを浮かべる。
ちゃんと、いつも通り笑えているだろうか……。
でも、無意識のうちにひくひくと口元がひきつってしまう。
そんな春歌の顔を、嶺二はじっと見つめてきた。
「あの……」
「ん、何でもないよ!ちょうど出会えて良かった。ぼくちん、楽屋に戻るところだったからさ」
「は、はい……」
つい、歯切れの悪い返事をしてしまう。
そんな春歌を見て、嶺二の眉が微かに顰められた。
このままでは、絶対におかしいと思われる。
「新曲のデモを聴かせてくれる約束だったよね?何か用事があった?」
「あ……あの…………お手洗いに……行こうかと……」
春歌は、咄嗟に嘘を吐いてしまった。
「そういうことだったんだね。女の子にそんなこと言わせちゃって、ごめん!じゃあ、ぼくは先に楽屋で待ってるね」
「はい。すみません……」
嶺二と一旦別れて、春歌は近くにあるお手洗いへ行った。
◆
鏡に映る自分の顔を見る。
今にも、泣き出しそうな情けない顔。
そして、短時間にいろいろなことを考えたせいか、少し青ざめている。
嶺二が、何かをした訳じゃない。
彼は、いつだってストレートに春歌への愛を囁いてくれる。
ただ、春歌に自信が無いだけ。
嶺二は芸能界という華やかな世界の人で、きれいな女優さんやかわいいアイドルに囲まれることも多い仕事。
それなのに、地味でお世辞にも美人とは言えない春歌を、仕事だけでなくプライベートなパートナーとして選んでくれた。
取り柄と言えるのは、作曲ができることだけ。
本当に、自分でいいのだろうか……。
嶺二には、もっとふさわしい魅力的な女性がいるのではないだろうか。
そう思うのに、他の女性が嶺二のそばに……と考えただけで、苦しくなる。
彼のしていることは、全部仕事。
先輩として、後輩をやさしく指導するのは当たり前のこと。
だから、春歌のこんな子どもっぽい独占欲を見せるわけにはいかない。
春歌は、ゴールドの鍵のモチーフが付いたネックレスにそっと触れた。
嶺二から贈られたネックレス。
それが、今は胸元で不安げな光を放っている。
ネックレスに触れることにより、少しだけ落ち着いてくるのを感じた。
今は、のんびりしている場合じゃないと、春歌は思い直した。
そろそろ戻らないと、嶺二におかしく思われる。
彼には、すでに、おかしく思われているだろうけど。
とにかく、泣きそうな上に青ざめた顔を、どうにかごまかさなくてはならない。
春歌は、鞄からポーチを取り出した。
そして、ポーチの中に入れてある、口紅をひとつ取り出す。
潤い効果のあるグロスと口紅の効果を合わせ持つそれは、親友の渋谷友千香がタイアップされてCMをしているもの。
初めてお化粧をする女の子に、気軽に手を取ってもらえるようにとのスポンサーの希望で、新人アイドルである友千香が起用されたのだ。
元気で明るい女の子なイメージの強い友千香が、その口紅を付けることによって、しっとりとしてセクシーな大人の女なイメージになる。
少女と大人の間を揺れる危うい美しさがよく表現されていて、好評だと聞いている。
春歌もそんな友千香の魅力にあやかりたくて、発売と同時にこっそりと買った。
でも、CM使用色の赤はまだちょっと付ける勇気がなくて、控えめなピンクを選んだ。
それを、唇の輪郭からはみ出さないように、恐る恐る塗った。
塗り終えた後、もう一度鏡に映る自分の顔をチェックする。
唇に色を乗せ、気分転換になったからか、顔色は少しマシになった気がする。
(大人にならなくちゃ……)
鏡の中の自分を見つめながら、心の中で呟いた。
口紅を塗って、大人になった気持ちに形から入る。
もうすでに、そこが子どもじみているけれど、気は心。
春歌は、鏡に映る自分に向かって大きく頷くと、嶺二の待つ楽屋へと向かった。
◆
ノックをして、嶺二の返事を聞いた後、楽屋の中へと入る。
「先輩、すみません。お待たせしました」
「気にしなくてもいいよー。……ん?」
笑顔で返事をしつつ振り返った嶺二は、春歌の顔をじっと見つめてきた。
「あ……あの……」
あまりにまじまじと見つめられたので、思わず俯いてしまった。
やっぱり、おかしかったのだろうか……。
「口紅してきた?さっきは付けていなかったよね?」
「あ、はい。……変ですか?」
「いや。そんなことないよ。すっごくかわいい!」
「ありがとうございます」
かわいいと言ってもらえたのは嬉しいけど、嶺二の顔をまともに見ることが出来なくて、春歌は急いで楽屋にある机の上に鞄を置いた。
「あの……新曲のデモのデータと一緒に楽譜に起こしたものも持ってきたので、用意します」
鞄の中からファイルを取り出すと、そこに挟み込んである楽譜を取り出す。
しかし、慌ててやったものだから、手が滑り、それらの楽譜が床に舞った。
「ひゃっ!すみません!すぐにまとめますので!!」
床に這いつくばり、慌てて楽譜を集めていたら、嶺二も一緒に集めてくれた。
「あの!先輩の手を煩わせるわけには……!」
目を白黒させる春歌の頭を、嶺二はそっと撫でられる。
「大丈夫だから、ちょっと落ち着こう?」
落ち着いたトーンの声でそう言われ、春歌はようやく嶺二の顔を見ることができた。
嶺二の色素の薄い綺麗な瞳が、春歌を見つめている。
泣いている子どもをあやすような、甘くやさしい瞳。
いたたまれない思いがさらに増して、春歌は再び目を伏せた。
「ありがとうございます……」
そう呟いて、嶺二の手から楽譜を受け取るのが、やっとだった。
◆
手伝おうかと申し出る嶺二に待ってもらい、春歌は楽屋にあるパイプ椅子に座って、机の上に並べた楽譜を右へ左へ動かして順番を直し始めた。
でも、混乱した頭でやっているので、必要以上に時間が掛かっている。
やっと終わりが見えてきたところで、春歌は一つため息を吐いた。
とにかく今日の自分は、ダメなところだらけだ。
嶺二の仕事上のやりとりを見て、勝手にもやもやした上に、こんな失敗……。
人の心の機敏に聡い嶺二には、絶対おかしいと思われているだろう。
彼は、自分よりもずっと大人で、春歌の考えていることなんか、きっと全部お見通し……。
とにかく切り替えなければと思ったところで、春歌の思考はすべて吹き飛んでしまった。
「今日は、どうしたの?」
背中に感じる、ぬくもり。
突然、背中から嶺二に抱きすくめられた。
楽譜の並べ替えに夢中になっていて、彼の動きを把握していなかった。
春歌の肩に、嶺二は顎を乗せて呟く。
首筋に嶺二の息がかかって、少しくすぐったい。
「今日の君、やっぱりおかしいよね」
「そ……そうですか?」
「ねえ、春歌ちゃん……」
二人きりのときに呼ばれる名前に、胸が高鳴る。
春歌を抱き締める力が、さらに強められた。
背中に押し当てられた嶺二の胸から伝わってくる体温。
そして、鼓動。
心なしか、少し速い気がする。
「あ……あの……」
言葉に詰まった春歌は、思わずぎゅっと目を閉じた。
この人の前で、心を隠すことなんて出来るわけがなかった。
大人ぶってメイクをしてみたところで、結局春歌は子どもなのだ。
「春歌ちゃん、さっきからぼくと話していても、一度も顔を見てくれないよね」
「……」
言葉を発せずにいる春歌の唇の輪郭を、嶺二の親指がゆっくりと辿っていく。
「急に口紅をしてきて、ドキッとしたよ。ぼくを誘ってるのかなって思ったけど、そういう訳じゃなさそうだし」
「そ……それは……」
「君は、そういうことをするタイプじゃないものね。それなら……」
「……」
「ぼくには、言えないことなの?」
嶺二が何かをした訳じゃない。
すべて、春歌自身の問題なのだ。
余計な心配を、嶺二にかけてしまっている。
「すみません……」
口下手な春歌は、心の中の感情をうまく言葉にできなくて、思わず謝罪を述べた。
それに驚いた嶺二の腕の力が、ふっと緩んだ。
その隙に、春歌は嶺二の腕をすり抜けて、立ち上がった。
「ご心配をかけてしまい、すみません。大丈夫です。お茶を……いえ、コーヒーでも淹れま……」
無理に笑顔を作って言ったものの、嶺二の顔を見ると同時に、言葉に詰まってしまった。
それは、ほんの一瞬のことだった。
普通の付き合いならば見逃していたであろう、ごくわずかな彼の表情の変化。
彼は、とても悲しそうな顔をしていた。
すぐにいつも通りの笑顔に戻ってくれたけれど……。
嶺二にこんな表情をさせてしまった原因は、明らかに自分だ。
素直になれない、自分のせいで……。
それなら、今、春歌が必死になって隠そうとしている本当の気持ちを明かせばいいのだろうか。
彼を独占したい、子どもじみたこの気持ちを。
……出来ない。
そんなことを言っても、嶺二を困らせるだけだ。
「先輩、わたし……」
俯いて瞬きをすると、頬を熱い涙が伝っていくのを感じた。
無意識のうちに溢れてしまった涙に、はっとする。
こんな風に泣いたりしたら、ますます困らせてしまう。
居たたまれなくなった春歌は、くるりと踵を返すと楽屋を飛び出した。