【2】

「春歌ちゃん!」

背後から呼び止める嶺二の声がしたけれど、春歌は全力で走った。
ちょうどやってきたエレベーターに飛び乗る。
降りてきた人が、驚いた様子だったがそんなこと構っていられない。
急いで扉を閉じるボタンを押し、1階へと降りていく。
ほっと息をついたところで、鞄を嶺二の楽屋に置いてきてしまったことに気が付いた。
鞄の中には、寮の鍵や携帯などの貴重品が、すべて入っている。
つまり、取りに戻らなければ、春歌はどこにも行くことが出来ない。
でも、こうして嶺二から逃げ出してきてしまったのに、すぐに戻っても合わせる顔がない。
確か、嶺二は夜には飲み会だと話していたので、1時間くらいすれば楽屋からいなくなるだろう。
それまで、どこかで時間を潰して……。
そんなことを考えているうちに、エレベーターは1階へとたどり着いた。
ゆっくりと扉が開いていく。
その先には……。

「先輩……」

信じられないことに、息を切らせた嶺二がいた。
春歌が驚きのあまり固まっていると、嶺二は無言でエレベーターに乗り込んできた。

「先輩。ここ1階です……」

もっと他に言うべきことがあるはずなのに、春歌の口から出てきたのはそんな言葉だった。
あのフロアからエレベーターよりも先に1階に降りるだなんて、簡単にできることではない。

「……ダッシュ……っ……したからねっ……。こんなに全力でダッシュしたの……久しぶりだし……」

そう言いながら、嶺二はエレベーターの扉を閉じると、元のフロアのボタンを押した。

「……戻るよ」

その一言ののち、嶺二は黙ってしまった。
そして、呼吸を整えるために、何度か深呼吸をする。
そんな彼の横顔を、春歌はただ見つめていた。

怖い、と思った。
みんなを明るい気持ちにさせてくれる素敵な笑顔を、いつだって絶やさない嶺二。
そんな彼の顔から、今はいっさいの表情が消えている。
怖い……。

エレベーターが目的のフロアに着くと、嶺二は春歌の手を荒々しく掴み、自分の楽屋へと連れ込んだ。
人目もはばからない上に、遠慮もなく痛いくらいに手を掴む力。
いつもの嶺二からは考えられない行動に、春歌は黙って従うしかない。
嶺二は楽屋に春歌を引きずり込み、扉を後ろ手に乱暴に閉めると鍵を掛けた。
そこでようやく、春歌の手は解放された。

「ごめん。ちょっと休ませて」

嶺二はそのまま扉にもたれ掛かったまま、ズルズルと床に座り込んだ。
どうすべきか分からず、春歌はぎゅっと唇を噛みしめ、そんな嶺二のそばにしゃがんだ。
目を閉じて、壁にもたれる嶺二の顔を、ただ見つめる。
乱れた荒い息の音だけが、静かな楽屋に妙に響いた。

「ロイヤルストレートフラッシュだよ。春歌ちゃん……」
「え……」

長い沈黙を破り、嶺二の口からぽつりと出てきた言葉はそれだった。
トランプゲームにおける、最強のカードの組み合わせ。
なぜ、それを今ここで……。

「ぼくに、最初から勝ち目はなかったってこと。君の勝ち」
「あの……それって」

春歌の問いに、嶺二は閉じていた目を開け、口元を綻ばせた。
そして、天井を見上げながら、呟く。

「恋をするとさ……。格好悪いことや情けないことが、いっぱい起こるよね……。そういうの、ぼく……。あまり好きじゃないんだよね」
「あ……」

その言葉に、反射的に立ち上がろうとした春歌の手首を嶺二は掴む。

「最後まで、聞いて……」

先ほどまで浮かべていた、自嘲するかのような笑みは消えて、真剣な顔で春歌を見据えてきた。

「逃げる女の子を、必死になって追いかけて、引きずり戻して……。本当にぼく、格好悪いよね」
「そんなことは……」
「君が否定してくれたとしても、格好悪いんだよ。そう……。格好悪いし、情けないってことだって分かっている。それでも、君に聞きたい」

そこまで言ったところで、嶺二の唇の端がひきつるように震えた。

「……ねぇ。どうして、ぼくから逃げるの?」

春歌の手首を掴んでいない、空いている手を春歌の唇へと伸ばしてくる。
先ほどと同じく、口紅を落とさないように、嶺二の指先が春歌の唇の輪郭をなぞる。

「どうして、そんなに綺麗になるの?」

嶺二の瞳がせつなげに、細められる。
これ以上、逃げてはいけない。
そう自覚させられた。
子どもだって、呆れられてしまうかもしれない。
それでも、きちんと自分の気持ちを伝えなくてはいけない。

「……さっき。先輩が、プロデューサーの方とお話されているところを、偶然聞いてしまったんです」
「……」
「それで、すごく不安になってしまって……。先輩は華やかな世界の方です。周りには綺麗な女性が、たくさんいらっしゃいます。だから、わたしでいいのかなと……」

嶺二は、黙って春歌の話を聞いてくれている。
自分の気持ちを言葉で伝えることは、春歌にとって最も苦手なことのひとつである。
それでも、必死になって言葉を紡いだ。

「先輩が、男女関係なく面倒見が良いことは知っています。それなのに、他の女性に先輩が……と考えただけで苦しくなってしまいました。先輩を独り占めにしたいなどと、思ってしまいました」

そこまで言うと、春歌は手首を掴んでいる嶺二の手に、自分の手をそっと重ねる。

「そんなことを考えてしまうわたしは、未熟です。だから、自分がすごく子どもに思えてしまい、口紅を塗ったんです。少しでも大人になりたくて……。そして、こんな気持ちを知られたら、先輩に呆れられてしまうのではないかと怖くなって、逃げてしまいました」

春歌は、ぎゅっと目を閉じると俯いた。

「ごめんなさい……」
「…………」

しばらくの沈黙の後、嶺二の手が春歌の頬にそっと触れた。

「春歌ちゃん。こっちを向いて……」
「はい」

嶺二は春歌の手首を解放すると、その手も春歌の頬に添えると、顔を近づける。
そのまま、二人の唇が重なった。
ちゅっと音を立てて、軽いキスをした後で、もう一度唇が重ねられる。
啄むようなキスを繰り返し、最後に強く重ね合わせたかと思ったら、今度は、嶺二の舌が春歌の唇をなぞり始めた。
ルージュを落とさないよう触れなかった指先と違い、嶺二の舌は春歌の唇に遠慮なく触れた。
唇を溶かそうとするかのように、嶺二の熱い舌先が何度もなぞっていく。

「……っん……ふぁっ……」

くすぐったいけれど、気持ちがいい。
そんな感覚が春歌を支配していき、無意識のうちに艶っぽい声が漏れてしまった。
とろけるようなキス。
春歌の体からは力が抜け、しゃがんだ姿勢を維持しきれずに、がっくりと崩れてしまう。
そんな春歌を嶺二は支えながら、執拗に唇を舐めながらのキスを繰り返した。
キスから解放されると同時に、春歌は嶺二の胸に倒れ込んだ。
しかし、嶺二はそんな春歌の肩を掴み、体を起こした。

「まだ、だーめ」
「せん……ぱい……」

ぼんやりとした意識で発する声は、舌っ足らずで……。
そうすることで、より嶺二を煽る結果になることに春歌は気づいていない。
嶺二は春歌の顎をとらえ、上向かせる。

「かわいいね。春歌ちゃん……」

嶺二のぱっちりとした目が、すっと細められる。
顎をとらえていた手が、ゆっくりと春歌の口元へと移動し、指先が唇に触れた。
今度は遠慮なく、先ほどまで舌先で触れていたそこに。

「口紅、取れちゃったね」
「……それは、先輩が……」
「うん、そうだね。ぼくのせい」

静かな声で呟くと、ちゅっと音を立ててキスを落とす。

「君は、無理に背伸びをしたり、飾らなくてもいい。とても魅力的な女の子だよ。ぼくは、ありのままの君が好きなんだから」
「でも、わたしはまだまだ子どもで……ふっ!ん……」

反論しようとした春歌の唇が、再び嶺二のそれで塞がれた。
唇を離し、嶺二は微笑んだ。

「ぼくが、君のことを子どもだって思っていたら、こういうことしないよ。それに、やきもちを焼いてくれたことを知って、今、すごく嬉しい」
「呆れていませんか?」
「呆れる訳なんかないでしょ。だから、これからもぼくに隠さないで……」

その言葉の続きは、互いの唇の中に消えた。
言葉を発する時間すら惜しむように、次の約束のギリギリの時間まで、嶺二は春歌にキスを繰り返した。



「先輩!お待ちしていました」

数日後、次の日オフの嶺二が春歌の家を訪れた。
ドアを開けると同時に、春歌ははじけそうな笑顔で迎え入れる。

「お待たせ!」

嶺二も笑顔で答えると、春歌の顔をじっと見つめた。
すぐに気づいた彼の様子に、春歌は恥ずかしくなって頬を染める。

「春歌ちゃん。今日も、口紅付けてる?」
「はい……」

先日、背伸びをしたり飾ったり無理をしなくても良いと言われたばかりなのに、春歌は口紅をつけて嶺二を迎えたのだ。

「あ、あの……。でも、今日は無理をしてつけている訳じゃありません。先輩にお会いするときは、綺麗な自分でいたい……。それも、飾らないわたしの気持ちなんです。だから……」

春歌の言葉を聞くと、嶺二は玄関でそのまま頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。

「あ、え……先輩!?大丈夫ですか」
「ぼく……もうダメかも……」
「えぇっ!!ど、どうしましょう!?」
「………された……」
「……え?」

しゃがみ込んだまま小声で呟く嶺二を、ただおろおろと春歌は眺める。

「マジで、ズキュンされた」
「えぇ!?」

嶺二は、そこでようやく顔を上げた。

「ロイヤルストレートフラッシュだよ。春歌ちゃん……」

先日も言われた台詞。
トランプゲーム……ポーカーの最強のカードの組み合わせ。

「あの、それってどういう意味ですか」

気になっていたことを、春歌はようやく尋ねることができた。

「君は、思っていることが顔に出やすくて、ポーカーフェイスが出来ないから、勝負や賭事には向いていない。それでぼくの勝ちだと油断していたら、実は最強のカードを持っていて、ここぞというところで食らわせてくる。結果、ぼくの負け。完敗……」
「あの…………」

戸惑う春歌に、にっこりと微笑みかけると嶺二は抱き上げた。
いわゆるお姫様抱っこだ。

「せ、せせ、せ、先輩!?」
「ぼくは、君にメロメロってことだよ!」

春歌を抱き上げたまま、嶺二はリビングを突っ切って、寝室へと向かった。
そして、春歌の体をベッドの上に、そっと下ろす。

「ぼくを完璧に負かしたんだから、責任を取ってもらうよ」
「あ、あの……。先輩。それを言うなら、わたしも先輩にメロメロです!ですから、わたしの負けかと……。きゃっ!?」

嶺二はベッドにダイブすると同時に、春歌の体をぎゅっと抱き締めた。

「ほーら。そういうところが、君が最強な理由なの!」
「うぅ……先輩……」
「ブーーブーー。二人きりの時は名前でしょ」
「嶺二……さん……」

恥じらいながら春歌がそう呼ぶと、嶺二は抱き締める力を緩め、春歌を組み敷いたまま見下ろしてきた。

「うん。やっぱり君の勝ち。っん……」

そのまま、キス。
何度も何度も、春歌の唇にやさしいキスの雨を降らせる。
呼吸すらままならず、春歌はくぐもった声を上げた。

「……はぁっ……れいじ……さ……」

キスのせいで、春歌の口紅はほとんど落ちてしまった。
その様子を満足げに見つめながら、嶺二は言った。

「せっかく付けたのに、また口紅が落ちちゃうね。でも、君がいけないんだよ。今夜は覚悟してね」

今度は、さっきよりも情熱的で深い大人のキス。
春歌の唇が、口紅のピンクではなく、激しいキスの余韻で紅く染まるのに、長く時間は掛からなかった。

AS嶺二ルートは、萌えながらも本当につらかったです。嶺二先輩の情けないところや弱いところをたくさん見ました。けれども、そんな嶺二先輩が、さらに愛しくなりました。
格好良いだけでない嶺二先輩を書きたいなと思って着手したのですが、ニーズとしてあるのかは謎です(笑)。