――海は嫌い。いつだって、あの人を奪ってしまうから。
水の追憶 炎の記憶
鎌倉の海が道路を挟んで目の前に広がる、路面電車の駅。そこが、望美の通う学校の最寄駅だ。
今日、望美たちの学校では、学年の締めくくりとなる修了式の日だった。
3月下旬になり、暦の上では春とはいうものの、寒さはまだまだ厳しい。
あいにくの曇り空で、気温も上がらないのだから尚更だ。
帰路に着く生徒たちの装いは、コート、マフラー、手袋と真冬のままだ。
海から吹いてくる強い南風が、望美の長い髪を煽りながら、駅のホームへと潮の薫りを運んでくる。
「春一番かな?」
「うーん、それっぽいよね。それよりさ、明日のことだけど……」
隣で同じように電車を待つ少女たちの無邪気な話し声を聞きながら、望美は海へと目をやった。
青黒い海。
どこまでも深く深く底なしに続いているような青色。
海の深い青色は、どんよりと曇った空の色を映し出すことなく、飲み込んでしまっている。
望美は不快げに眉根を寄せて、首に巻いたマフラーへと顔をうずめた。
視線は、海に向けたままで。
いつ……どんなきっかけでそうなったのかははっきりしないが、望美は海が嫌いだ。
海にほど近い、鎌倉で生まれ育ったにもかかわらず。
しかし、なぜ海が嫌いなのかと理由を問われても、望美ははっきりと答えることができない。
ただ、海をずっと見つめていると、恐れにも似た感覚を覚えるのだ。
このまま自分自身が海に吸い込まれてしまいそうな……。
青黒い海は、空だけでなく望美までも吸い込んでしまいそうな気がする。
いや、望美だけでなくすべてを……。
だから、怖い。
海を見つめていた望美の視界を遮るように、駅のホームへと電車が入ってきた。
はっとして望美はマフラーの端をぎゅっと掴むと、電車の中に乗り込んだ。
嫌いなはずの海に、また心を奪われていた自分を自覚しながら。
修了式ということで、沿線沿いにあるどの学校も下校が早いようで、電車の中はやや混み合っていた。
望美は電車には3駅分……極楽寺駅までしか乗らないので、立ったままで車窓から外を眺めた。
カタンカタンと規則正しいリズムを刻みながら走り始める電車。
電車の動きに合わせて流れていく風景。
でも、海は相変わらず青黒い色で佇んでいる。
その色に魅入られたかのように、望美はまた海を見つめた。
(海の中で、あの人は……苦しくなかったのかな……)
ふとそんな言葉が、頭を過ぎった。
望美は、目を瞬かせて首を勢いよく振った。
(”あの人”って、誰!?)
時折、自分の頭をよぎる思考の中に、望美自身でも理解できないことが多くあった。
紛れもなく、自分自身が考えたことのはずなのに。
その思考は理解しようと試みたところで、あまりにも断片的過ぎて、より混乱する。
そうするうちに、極楽寺駅到着を告げる車内放送が流れた。
扉が開くと同時に、望美は車外へと素早く降りた。
すっきりしない思考を、どうにかして吹き飛ばしたかった。
「先輩……。春日先輩!」
駅の改札をくぐったところで、後ろから声をかけられた。
振り返ると、隣の家に住む幼馴染の譲だった。
「譲くん……。今日は部活が無かったの?」
「ええ。修了式だから、今日は部活が無かったんです。でも、明日からはしっかりとありますが」
「そうなんだ。それなら、学校を出る前に声をかければ良かったね」
「気にしないでください。俺こそ、今日は部活が無いことを、先輩には話していませんでしたから」
そう言いながら譲は、望美と並んで歩き始めた。
一つ年下の譲とは、家が隣同士だったこともあり、幼い頃から姉弟のように育ってきた。
望美と同じように、譲も”一人っ子”だったから、望美を本当の姉のように慕ってくれていた。
「また、1年が終わったね」
「はい。こうして終えてみると、あっという間でしたね」
「私はもう3年生になっちゃう。ついに受験生だよ」
「先輩は、もう進路を決めましたか?」
「うーん……。まだ、何となくだけどね」
「進学ですか?」
「うん。歴史の勉強に最近興味があって」
「え?でも先輩、日本史って、苦手じゃありませんでしたか?」
「う……痛いところを……。確かにその通りなんだけど……」
「頑張ってください。俺で力になれるところがあったら、手を貸しますから」
「が……頑張るよ」
肩を竦めながらそう呟く望美を、譲は微笑みながら見つめた。
今の望美の表情には、陰りが無い。
先ほど、電車の中で見せていた表情はすっかり消えている。
実は、電車の中で彼女がいることに、譲は気がついていた。
陰りを帯びた表情を浮かべる望美に、すぐにでも声を掛けたかった。
だが、混み合った電車の中で遠くに離れていてできなかったので、降りてすぐのところで譲は彼女に声を掛けた。
時折望美は、どこか遠くに思いを馳せているような陰りのある表情をする。
そして、その表情をする時は決まって苦しそうで……。
できるならば、あのような表情はして欲しくない。
望美の陰りの原因を、譲は知っていたから。
二人歩いていくうちに、空からぽつりぽつりと雨が降ってきた。
朝から曇っていたから、ついにといった雰囲気ではあったのだが。
小降りの雨は、すぐにどしゃぶりへと変わる。
そして、雷も鳴り始めた。
それは春の訪れを告げる俗に春雷と呼ばれる雷であったのだが、そんな悠長なことは言っていられない。
「先輩。急ぎましょう!」
譲は咄嗟に望美の手を取り、駆け出そうとした。
その瞬間、まばゆい稲妻とともに雷が鳴った。
凄まじい音に、望美が悲鳴を上げて立ち止まる。
「先輩。大丈夫ですか?」
俯いてしまった望美に、譲は心配げに声を掛ける。
だが、望美はその言葉に返事をしなかった。
取った手が、がくがくと震えている。
「先輩。風邪を引いてしまいます。どこか雨宿りでもできる場所に……」
譲がそう言って手を引くのに、望美は動くことができなかった。
強い頭痛が、望美を襲っていたからだ。
頭痛と一緒に、忘れていた記憶が溢れてくる……。
異世界で過ごした、かけがえの無い時の……。
頭を押さえながら、望美は呟いた。
「ど……して……」
「先輩?」
「あの雨の日は、一緒にいてくれたのに……どうして……」
「……!!先輩、しっかりしてください!」
望美の言葉に、譲は目を瞠った。
慌てて彼女の肩を掴むと、揺さぶった。
「譲くん……」
徐々に頭痛が治まってきたのか、望美は俯いていた顔を上げた。
その表情を見て、譲は言葉を失った。
いつもの明るい彼女とは違う。
そして、時折見せる陰りのある表情とも違う……。
悲しみや諦め…………さまざまな感情が混じりあった表情。
「私ね……海が嫌いなの……」
「はい……」
小さな声で呟く望美の言葉を聞き逃さぬよう、譲は真剣に耳を傾ける。
「どうして嫌いなのか分からなかった……」
「はい……」
「でも、ようやく分かった……。ううん、思い出した……」
「……」
「海は嫌い。いつだって、あの人を奪ってしまうから……」
その言葉を聞くと同時に、望美の肩を掴んでいた譲の手から、がっくりと力が抜けた。
ついに、思い出してしまったのだ。
彼女が消してしまいたかった記憶。
苦しいから、消してしまいたいと龍神に願った記憶を……。
譲はゆっくりと頷きながら、声を絞り出すようにして言った。
声が、妙に乾いていた。
「知って、いました……」
「そうだよね。知ってる……よね……」
望美の中で溢れてくる記憶は、留まることを知らない。
激しい雨が、鮮やかな記憶を呼び覚ます。
彼と……平知盛との記憶を……。