恋の病

ヴァイオリンの音が聴こえる。
それは、とても微かな音なのに、冥加の耳に確かに届いた。
清らかでやさしく、それでいて気高い。
まるで、聴く者を包み込むような音色。
冥加よりも技巧的には劣るはずなのに、彼を惹きつけられて止まないその音が紡ぐメロディは、「愛のあいさつ」。
こんなヴァイオリンを弾ける人間は、この世界に一人しかいない。
その名は……小日向かなで。

そこまで思い至ったところで、冥加はこめかみを押さえた。
彼女のヴァイオリンが、今ここで聴こえるはずがないのだから。

全国学生音楽コンクールファイナルで、冥加玲士率いる天音学園高校室内楽部が、星奏学院高校に敗れてから、3日が経っていた。
本命と目されていた天音の敗退は、少なからず多方面へ衝撃を与えた。

――あの、冥加に勝るヴァイオリニストが、存在した。

その事実から、天音学園における冥加の理事としての絶対的な地位が、僅かではあるが揺らいだ。
だが、冥加は立ち止まることはできない。
義父アレクセイとのパワーゲームは、相変わらず続いている。
僅かなほころびなど、冥加の力をもってすれば、すぐに建て直しがきく程度のもの。
だが、そのために、少し無理を重ねすぎたのかもしれない。
聴こえるはずのない時に、彼女のヴァイオリンがこうして聴こえてきてしまうのだから。

――恋の病

そんな言葉が頭をよぎり、冥加は眉間に皺を寄せた。

「馬鹿な……!そんなはずがあるか!」

否定したくて、思わず声を上げてしまう。
こんな俗人めいたものに、自分が侵されているはずがない。
この、冥加玲士が。
しかし、冥加のことをよく知る人間から見たら、冥加がその”俗人めいた病”に侵されているのは一目瞭然だ。
むしろその病が、今の彼の人格形成に大きく影響している。
だがそれを指摘できる人間が、不幸なことに冥加の近くにはいなかった。
いや、指摘されたところで、決して認めることができないのも、冥加の不幸であった。

「ぶ……部長……?オレたち、何か悪いことしましたか?」

おどおどと尋ねる七海の声に、冥加は今自分がどこにいるのかを思い出した。
今、冥加のいる場所は、天音学園の入居する高層ビルの中にある室内楽部の部室。
これからの部活動計画をまとめ、部員たちに連絡をしていたところだ。
冥加は今年で高校を卒業するが、理事として残ることはすでに決まっている。
この夏の雪辱を果たすためにも、部員たちにより力を付けさせなければならない。
冥加のいなくなった後でも、勝てる部を作らなければならないのだ。

「何でもない」

いつもの仏頂面でそう言うと、冥加は続きを話そうとした。

「冥加……。ちょっといいかい?」

すると、それまで黙って話を聞いていた天宮が挙手をした。

「なんだ、天宮。まだ、話の途中だが」

眉間に皺を寄せて、天宮をぎろりと睨み付ける。
普通の部員なら、その視線を浴びるだけで竦み上がってしまうところだが、残念ながら天宮には効力を発揮しない。
幼い頃からお互いを知っている故か、アンサンブルメンバーとしての他人には計り知れぬ繋がりがある故か。

「ヴァイオリンの音がするんだけど」
「は?」

突然の天宮の発言に、さすがの冥加も間の抜けた声を上げてしまった。
彼が、突拍子のない発言をするのはいつものことであるが、今日は違う。
冥加の感じていたことと、彼も同じことを感じていたのだ。
しかし、冥加はその程度のことでは揺るがない。
すぐに表情を、いつもの厳しいものに戻す。

「聴こえない?ヴァイオリンの音がするんだよ」
「天宮……。ついにお前は、幻聴が聴こえるようになったのか?」

ため息をつきつつ答えてやった。
しかし、天宮は軽く首を傾げて続けた。

「でも、君にも聴こえてるだろう?それなら、幻聴じゃないよ」
「なぜ、俺に聴こえていると分かる」
「だって君、この音が聴こえ始めたら、少し表情が柔らかくなったよ。……彼女が、ここに来ているんじゃない?」
「……」

天使のような……という形容がこれほど似合う男がこの世にいるのだろうか。
そんな微笑を浮かべながら、天宮は爆弾を投下するような発言をした。
やっていることは、天使からかけ離れ過ぎている。
この男は、楽しんでいるのだ。
ようやくそのことに気が付くと、心の中で舌打ちをしながら、冥加は天宮の話を聞かなかったことにしようとした。
二人のやりとりを聞いていた部員たちが、”彼女って誰?”などと言ったことをこそこそと話し合っている。

「部活中の雑談は、禁じているはずだが?どうしてもしゃべりたいという者は、挙手をしろ」

冥加が睨みを利かせてそう言っただけで、少しざわついていた部室内は静まり返った。
……はずだった……。

「あ……あの……冥加部長?」

だが、怖いもの知らずにも、手を挙げるものが約一名。
一年生の七海宗介だ。

「なんだ、七海」
「オレにも、聴こえています。ヴァイオリンの音。小日向さん、さっきからずっと弾いていますよね?ひょっとして、冥加部長に用があるんじゃないでしょうか……。彼女がここに来る理由、他に考えられません」

冥加は、本日二度目になる心の中での舌打ちをした。
天宮も然り、この七海も、空気と言うものを読めないのか。
天宮は計算ずくでそういった行動をするのだが、この七海は何も考えていないからより一層タチが悪い。
この男、以前からおどおどとして、人の顔色を伺う癖が常にある。
それは相変わらずなのだが、夏の大会を経て少し変わった。
ごくたまに、このように冥加に意見することが出てきた。
絶対的な権力者である冥加に意見など、これまでなら許されることではなかった。
部の規律の乱れにも、繋がりかねない。
以前の冥加なら、絶対にそのようなことはさせなかった。
しかし七海は、1年生ながらも、冥加、天宮以外で唯一マエストロフィールドを聴衆に見せることができる演奏者だ。
今や、冥加を含め、部の中でも一目置かれている存在。
七海が発言することで、部の規律が乱れていくような大きな問題には繋がらない。(……と、冥加は考えている)

「こ……こんなこと言うの、不躾かもしれませんが、この連絡が終わったら、会いに行ってあげたほうがいいと思います!」
「七海……」

本当に不躾だ。
いや、不躾だと思うのなら、口にするな。
そんなことを思いながら、冥加は今日一番の鋭い視線を七海に投げかけた。

「貴様に指図されることではない。俺が決めることだ」

見つめられたら誰もが凍りつく、絶対零度の視線。
七海は、ひっと喉の奥で声にならない悲鳴を上げたようだ。
しかし、まだ何か言いたげな表情を浮かべる。
それ以上しゃべるなと、冥加は視線で七海を封じた。
この雰囲気に、部員は全員凍りついている。
部室の中は、日本にいながらも、永久凍土になってしまったようだ。
冥加は、残りの連絡事項を一気に述べる。

「…………以上。各自、パート練習にいそしめ。来週には試験を行う。満足のいく演奏のできないものは、室内楽部には必要ない。心しておけ」

それだけ伝えると、冥加はさっさと部室を出て行った。
残された部員たちは、ほっと安堵の表情を浮かべる。
冥加がいなくなって、ようやく緊張が解けたのだ。

「天宮先輩、冥加部長は小日向さんのところへ行ったのでしょうか?」
「そうだろうね。冥加はいつも歩くの速いけど、今日はいつもの倍の速さだったからね」
「天宮先輩、さすがですね!冥加部長のこと、よく分かっているんですね」
「そんなことないよ。ああ見えて、彼、案外分かりやすいから。君にもすぐに分かるようになるよ」
「そうなんですか!?オレ、ぜひ知りたいです!」

さっき睨まれたことなど、もうすっかり忘れてしまったのか、七海の明るい声が部室に響く。
自分のいなくなった部室でそんな会話が繰り広げられていることなど、出て行った当人は知る由もない。
知らぬが仏……とは、昔の人はうまく言ったものだ。



冥加はエレベーターを使い、学園の玄関まで降りていく。
そして、改めて事実を確認して、眉を顰めた。
やはりいたのだ。
彼女……小日向かなでが。

かなでは、冥加の姿を認めると、眩しいくらいの笑顔を浮かべてヴァイオリンを弾くことを止めた。

「よかった……。会えた……。ヴァイオリンロマンスって、本当なんですね」
「ヴァイオリン……ロマンス?」

耳慣れぬ言葉に、冥加は思わず聞き返した。

「はい!星奏学園の生徒の間で伝わっているお話なんです。ヴァイオリンの妖精が起こす奇跡なんです。思いを寄せている人に会えるんです」
「……下らん」

冥加は、かなでの言葉を一蹴する。

「先ほど部のミーティングをしていたら、雑音が聞こえてきた。いつまでもそのような雑音が鳴られていても困るから、確認に来たまでのこと」
「……ごめんなさい」

かなでは、途端にしゅんと落ち込んだ。

「あの……会いたかったんです……。でも、連絡先を聞くこと、忘れてて……。だから、ここに来れば会えるかなって」

その言葉にため息をつくと、冥加は言った。

「そのためだけに、来たのか?」
「すみません。その上、雑音までさせてしまって……。私、まだまだですね」

かなでは、俯いて今にも泣きそうな顔になっている。
このままでは、目立って仕方がない。

「とりあえず、場所を変える」

かなでにとって、冥加の申し出はひどく意外なものだったようで、大きな目をさらに見開いて見つめてきた。

「何か不服か?」
「いえ……。あの、いいんですか?」
「何がだ?」

冥加は、不機嫌そうに眉根を寄せる。

「……忙しくないんですか?」
「貴様の用を聞くくらいの時間ならある」
「ありがとうございます」

そこまで話したところで、二人は無言で見詰め合う。

「……」
「……」
「……」
「……あの……」
「行くぞ」
「あ!はい」

くるりと背を向けて歩き始めた冥加に、かなでは小走りでついてくる。
冥加は普通のペースで歩いているのだが、足の長さの違いだろうか。
転ばれても後味が悪いと思い、冥加は自然と歩くペースを落とした。