〔2〕

後ろを歩くかなでに、冥加は振り返ることなく言葉を掛ける。

「先ほどの雑音だが、誰が演奏しているのか、わざわざ足を向けて確かめてやろうという程度には弾けていた」
「はい?」
「この俺が、足を向けてやる程度には弾けていたということだ」
「はい!」

途端、かなでの返事が明るく弾んだものになった。
分かりやすい女だと、自然と冥加の口元に笑みが浮かんでくるが、後ろを歩くかなでには見えない。

「どこへ行くんですか?」
「生憎、学内には他校生を入れて話すような場所はない。隣のビルに行く。そこなら、適当な場所があるだろう」
「あ!それなら……あの、そこのビルに、新しくクレープ屋さんができたんです!そこにしませんか?」

かなでの提案に、冥加は思わず足を止めた。
想定外の出来事だったのか、後ろを歩くかなでが、そのまま冥加の背中にぶつかってきた。

「いたっ!ごめんなさい。でも、冥加さんが急に止まるから……」
「貴様は……」
「え?何か私、いけないこと言いましたか?」

冥加は、ゆっくりと振り返った。
冥加の背中に鼻をぶつけたのか、さすりながらかなでが見上げてくる。

「この俺に、クレープ屋へ行けというのか?」

そう言い放った冥加の顔は、手の施しようがないほどの仏頂面をしていた。
しかしかなでは、それにまったく怯むことなく笑顔でこう言った。

「心配いりません!この間、枝織ちゃんと行ってみたんですが、おいしかったですよ。甘いものだけじゃなくて、ツナやレタスを使った甘くないクレープもありますから」

そういう問題ではない、と冥加は心の中で本日三度目の舌打ちをした。
見ため的に、冥加がクレープ屋に似合うとはお世辞にも思えない。
女と連れ立ってクレープ屋へ行くなど、軟派なことができるか。
そう言ったことを考慮して、行き先を考えていないのか……。
この女も、天宮や七海と一緒だ。
空気を読まずに近づいてきて、この冥加玲士のペースを乱す。
いや、自分がこういう人間を引き寄せているのだろうか。

「ぜひ、お誘いしたいなと思っていたんですが……。駄目ですか?一緒に行きたいんです」

かなでは、また悲しげな表情を浮かべる。
冥加は目を閉じて、深呼吸を一つすると言った。
自分も大概甘いと思いつつ。

「まあいい。俺も行く当てがあった訳ではない。仕方がないから、今日は特別に付き合ってやる」
「はい!じゃあ、案内します」
「ただし、今日だけだ」
「分かってます」

かなでは、ぱあっと笑顔になると、張り切って小走りで先を行く。
喜びのせいか、歩くペースが先ほどの倍になっている。
今度はかなでの後をついて、冥加が大股で歩いて行った。



目的の店に着くと、二人はそれぞれクレープを購入した。
こういった店に来る機会のほとんどない冥加は、メニュー選びに迷った。
一方慣れたもののかなでは、さっさといちご、バナナ、生クリーム、そしてチョコレートがトッピングされた、甘いもののオンパレードなクレープを注文していた。
冥加は、甘いものが苦手なのでそんなものを選べるはずがない。
だが、選ぶのに時間を食うのは、彼の高すぎるプライドが許さない。
とりあえず、かなでが先ほど言っていた甘くないツナサラダのクレープを選んでおいた。

その店はオープンテラスになっており、通りに面したところに席がある。
隅にあるテーブルが空いていたので、クレープを手に二人で向かい合って座った。

「えへへ。この次に来たら、これを注文しようって決めていたんです」
「貴様は……。よくそんなに甘いものを食べる気になれるな」

半ば呆れつつ言う冥加に、かなではニコニコしながら答える。

「女の子は、甘いものが好きなんですよ」

そのままの笑顔でクレープを頬張るかなでを見つつ、冥加は複雑な心境になってきた。
つい数日前まで、この女を生涯の敵と考え、敗北の絶望を味わわせるために冥加は生きてきた。
しかし、結局どうあっても敵わないことを知り屈服したのは、冥加の方だった。
そんな女と、こんな風に穏やかな時間を過ごすことになるとは……。
運命のいたずらとしか、言いようがない。
そんなことを考えつつ、冥加は、手にしたクレープを一口食べた。
途端、冥加に走る衝撃。
ただでさえ険しい冥加の顔が、さらに酷いことになる。
いったい、何があったと言うのか。


ツナサラダクレープの中に、コーンが入っていた。


雷に打たれたかのように衝撃的な表情を浮かべて固まっている冥加に、さすがのかなでも気がついた。
首を傾げて、心配げな表情を浮かべる。

「冥加さん……。どうかしましたか?」
「何でもない」

平静さを装い、もう一口食べる。
その次の瞬間、口の中に広がるプチプチした食感と甘い味。
間違いない。
これは、スイートコーンだ。
甘いものと並んで、冥加が大嫌いな食べ物、とうもろこし。
このスイートコーンは、ただのとうもろこしよりも甘さが勝る点でさらにタチが悪い。
”ツナサラダ”という名前に油断していたが、よく考えたら、コーンはサラダというメニューによく使われる食材だ。
メニューの選択を誤ったことに、苦い気持ちがこみ上げてくるが、口の中に広がるコーンの味はとても甘い。
そして、まずい。
だが、ここで嫌いだから食べるのを止めるだなんてことは、冥加のプライドが許さなかった。
かなでの手前ということもある。
それに、冥加は嫌いなものを食べられないほど子どもではない。
しかし、一口食べるたびにしかめ面を浮かべてしまうことだけは、止めることができなかった。
そんな冥加を見ているうちに、かなではあっと言うような表情を浮かべた。

「冥加さん。ひょっとして、クレープに嫌いなものが入っているんですか?」

かなでがそう言った瞬間、冥加の眉がぴくりと動いた。
その表情がもうすでに、はい正解ですと言っている。

「俺に嫌いな食べ物など、ない」
「でも……」

むすっとして冥加はそう言うものの、かなでは納得できないのか、じーっとその顔を見つめてきた。
冥加のことを気遣っての行動だろうが、どうにもいたたまれない気持ちにさせられる。

「何度も言わせるな。別に、クレープに入っているコーンが嫌いだなどと言うことは断じてない」
「やっぱり、そうだったんですね」

かなでは、にっこりと微笑んだ。

「甘いものじゃなければ、大丈夫だと思っていましたけど、他にも苦手なものがあったんですね。調査不足でした」
「……」

冥加は返事をせずに、もう一口、さらに二口とクレープを食べた。
しかし、食べるたびに表情は曇る。

「あの……冥加さん。嫌いなら、そんなに無理して食べなくてもいいですよ?」
「嫌いじゃないと言っているだろう。貴様は日本語も理解できなくなったのか?俺は、コーンを積極的に摂取しないだけであって、食べられない訳ではない」
「……」

冥加の言葉に、かなでは、目をぱちくりさせた。
しかし、その次の瞬間、くすくすと笑い出した。

「何がおかしい?」

かなでは、くすくすと笑いながら言った。

「冥加さん、それって嫌いってことですよ?」

かなでの言葉がまさにその通りであったので、冥加はもうどうにでもなれと言うような気持ちで、一気にクレープを口に詰め込んだ。
眉根を寄せながら咀嚼し、飲み込む。
かなでは、相変わらずくすくす笑っていた。

「言いたいことがあるのなら、はっきり言ったらどうなんだ」

かなでは、笑いながら言った。

「ごめんなさい。あの、冥加さんのそんな顔が見られて、嬉しくて……」
「俺に嫌いなものを食べさせられて、そんなに嬉しいのか?貴様にしてみれば、さぞかし小気味のよいことなのだろうな」

ポケットからハンカチを取り出すと、冥加は口元を拭った。
舌の上にはまだコーンの甘い後味が残っていて、不快なことこの上ない。

「違いますよ。冥加さんって、これまでは何か遠い人のように感じていたけれど、すごく身近な人になったみたいな気がして嬉しいんです」
「それは、気の迷いだ」
「でもでも!冥加さんがそんな風に口いっぱいにクレープを頬張る姿なんて、滅多に見られないと思います。こうして一緒にお店に来たりしない限り……」

冥加はハンカチをしまうと、ちらりとかなでを一瞥した。
ぐっとこぶしを握り、冥加の新たな一面を見られたことの喜びを、相変わらず力説している。
その一生懸命な姿に、冥加は思わずふっと笑った。
この女には、ペースを乱されっぱなしだ。
でも、だからと言って遠ざける気持ちにも到底なれない。

「お前が、そんなに嬉しいと感じるのならば、きっとそうなのだろうな」

遠回しではあるが、冥加もかなでと一緒にこうして過ごせて嬉しいと言う意味が込められている。
だがそう言った遠回しな言葉は、鈍いかなでにはきっと伝わらない。
しかし今は、それでいい。

「え……?今……」

冥加の言葉に、かなではぽかんと口を開けた。
その顔も、可愛らしいと感じるのだから不思議だ。
部活の最中に突然呼び出され、天宮と七海に引っ掻き回されたせいで部員たちには変な憶測をされ、挙句の果てに嫌いなコーンまで食べる羽目になった。
最悪なことが連続して起こったはずなのに、この胸に満ちる温かな気持ちは何なのか。

――恋の病

そんな言葉が、冥加の頭をまたよぎった。
この冥加玲士が、そんな俗人めいたものに狂ってしまったのか。
だが、かなでと過ごすうちに、すんなりとその事実を受け入れ始めている冥加がいた。
こんなに素直に受け入れてしまうとは、これは相当、この病に侵されているのかもしれない。

「恋する者の狂乱は、あらゆる狂乱の中で最も幸いなるものなり……か。うまく言ったものだな」
「え?」

思わず口をついて出てきた冥加の言葉を聞き取れなかったのか、かなでは首を傾げた。

「聞こえなかったのなら気にするな。お前は知らなくていいことだ」

そう、今はまだ知らなくていいこと。
この冥加玲士が、恋に狂っていることなど。

「……分かりました。でも、またこうしてお誘いしてもいいですか?今度は、コーンの入っていないメニューを研究しておきますから!」

冥加は、口元に笑みを浮かべるとポケットから名刺ケースを取り出した。
高校生とはいえ、冥加は天音学園の理事。
すでに名刺も持っている。
そこから名刺を一枚取り出し、裏返した。
突然の展開に目を瞬かせるかなでを、ちらりと見やるとペンで名刺の裏にさらさらとアルファベットの羅列を記す。
それは、冥加の携帯のメールアドレスだ。
覗き込みながら、かなでが「英語も達筆ですね」と呟いた。

「また誘うのは別に構わないが、用があるたびにヴァイオリンで呼び出されるのは、非効率極まりない。ここに連絡をしろ。ただし、用があるときだけだ」

念を押しながら、かなでに名刺を差し出す。
冥加から連絡先を教えてくれるだなんて、かなでにとって信じられないことだったのか、受け取った名刺をまじまじと覗き込んでいる。

「あの……これ、本物ですよね?」
「なぜ、嘘を教える必要がある。お前の脳の中で、俺はそんな人間なのか?」
「あ……そんなことはありません」

勢いよく首を振ると、かなではもう一度じーっと見つめた。
そして、にっこりとそれはそれは幸せそうに微笑むと、名刺をとても大事そうに手に包んだ。

「ありがとうございます。また連絡をしますね。冥加さん、大好きです!」
「なっ……。お前は……恥ずかしげもなく、よくそんなことを言えたものだな」
「え……あの……思ったことを言っただけですけど、まずかったですか?」

この女は、あまり深く考えずに男に対してこんなことを言うのだろうか。
7年間かなでに振り回されてきた冥加だが、これからは別の意味で振り回されそうだ。
先が思いやられると、冥加は心の中でため息をついた。
でも、この女に言われるのならば、許せるような気がする。

「いや、悪くはない」

そう一言述べると、冥加は笑った。
それは、かなでが頬を染めて見惚れてしまうくらい、やさしく甘い笑顔だった。

冥加さん、これからもファムファタルに振り回されてください。
ツンが標準装備な冥加たんをデレさせるのは難しいです。”貴様”と”お前”の呼び分けが、冥加たんの萌えポイントだと個人的に思います。