枯れない花

この夏、あなたと出会えて、私は自分の「花」を見つけることができました。
あなたは私にとってヴァイオリンの先輩であり、先生であり……。
かけがえのない大切な人です。

神戸にあなたが帰ってから、1ヶ月以上経ちました。
毎日会えない日々に、だいぶ慣れてきたけど、たまに、とても不安になっちゃいます。


私の「花」は、変わらずに咲いていますか?



夕暮れ時の風に、ほんの少し肌寒さを感じて、かなでは思わず空を見上げた。
夕陽に赤く染まったいわし雲が、徐々に夜の藍色に染まっていくところだった。
なんだかもの悲しさを誘う景色だ。
今日から10月。
制服も夏服から冬服へと衣替えした。
季節は、秋へと確実に移り変わった。

「すっかり日が短くなりましたね」

空を見上げるかなでと同じ思いだったのか、隣を歩く悠人がそう言った。

「ごめんね、ハル君。せっかくの土曜日なのに、こんな遅くまで練習につき合わせちゃって」
「いいえ。僕は全然構いません。先輩の納得が行くまで、付き合いますよ。練習をすることは、苦になりませんから」
「ありがとう」

やさしい後輩の言葉に、かなでは感謝の気持ちを笑顔で伝えた。
土曜日の部活は、半日で終わるはずだった。
しかし、かなではどうにも納得の行く演奏ができず、部員たちの帰宅後も居残って練習をしていた。
それに付き合ってくれたのが、後輩のハルこと、水嶋悠人だった。

夏の全国大会を終え、律たち3年生は部活を引退した。
そしてその余韻に浸る間もなく、2年生が中心となっての部活動が9月から始まった。
新制オーケストラ部として、手探り状態で進む日々。
その最初の行事が、11月にある学内の文化祭でのアンサンブル演奏だった。
夏の大会で優勝したことで、学内でのオーケストラ部に対する注目度は、俄然高まっている。
3年生引退後のオーケストラ部の力は、どれ程のものなのか。
そして、彗星のごとく現れた2年生の1stヴァイオリンの実力は、どれほどのものなのか。
大きなニュースの少ない日常だからこそ、オケ部に生徒たちの注目は集まる。
だから、学内とはいっても、かなりのプレッシャーをかなでは覚えていた。
全国大会の舞台を踏んだとはいっても、かなではやはり高校2年生の少女なのだ。

「あの……先輩……」
「ん?」
「僕が言うのも差し出がましいのですけど、そんなに自分を追い込まなくても大丈夫ですよ」
「……」

悠人の言葉に、かなでは思わず歩みを止めて目を瞠る。
おずおずと悠人の方を見ると、真摯な瞳でかなでを見つめ、そのままこう続けた。

――先輩は大丈夫です、と。

かなでのことを心配して、慎重に一つ一つ言葉を選んでいるのが、自身の前髪をいじる仕草から伝わってきた。

「ありがとう」

そう笑顔で告げると、また歩み始めた。

「うーん……。自分では追い込んでるつもりはないんだけどな……。みんなに同じこと言われちゃう。ハル君もそう感じる?」
「はい。それだけ、先輩が必死なのが伝わってくるんですよ」
「そうかな?えへへ……」
「えへへ、じゃないですよ!追い込むばかりじゃ、いい音楽は生まれません。明日は幸いにも、部活がお休みです。ゆっくり休んでください。一日くらい休んだほうが、今の先輩には丁度いいです」
「休む……の……?でも、練習しないんじゃ……」
「先輩、分かりましたか?」
「あ!はい」

練習の鬼と言ってもよいくらいの悠人が、思わぬことを言い出して、かなでは面食らってしまった。
でも、心の底からかなでを心配していることが分かったので、悠人の思いやりを無碍にはできない。
悠人の勢いに気圧されるように、かなでは、その場でうなずくしかなかった。



「はい……って、ハル君には言ったけど……」

そう呟きながら、かなではヴァイオリンのケースを、部屋に備え付けられた台の上に丁寧に置いた。
今いるのは、駅前にある練習スタジオ。
菩提樹寮まで送ってもらって悠人と別れた後、かなでは結局自室には戻らなかった。
そのまま、ここへとやって来たのだ。
自室で休んでいられる気分ではなかった。
一人になってじっとしていると、余計なことを考えてしまう。
マイナス思考の渦に飲み込まれそうになる。

かなでは一息つくと、制服のポケットに入れてあった携帯電話を取り出した。
折りたたんであった状態から開き、ボタン操作をして電話帳のデータから、ある人物を呼び出す。
そして、ディスプレイに表示させた名前。

――東金千秋

そこまでの動作は、もう慣れたものだった。
ディスプレイ上で煌々と光るその名前を、かなではしばらく見つめた。
この名前を見るだけで、自然と笑みがこぼれてくる。

(電話して、みようかな……。)

そんなことをぼんやりと考えたところで、かなでは慌てて首を振った。
特に用もないのに、かけるものではないと思ったからだ。
何と言っても、多忙な東金。
父親の仕事を手伝ったりすることもあると言うし、それプラス、今は受験勉強もある。
神南高校は、大学までエスカレーター式のはずなのに、彼は敢えて他校を受験する選択をした。
東金はいつでも電話してきていいと言ってくれているのだが、彼が大変な状況だからこそ、その言葉に甘えてはいけない気がする。
彼の大変さに比べたら、かなでの悩みなど些細なものだ。

ヴァイオリニストとして稀有な才能を持つ東金。
彼には、私立大学から特待生としての声も、多くかかっているらしい。
しかもオファーは日本だけに留まらず、海外の大学からも来ているというのだからすごい。
だが、それを甘んじて受け入れないところが、東金らしいと言える。

――大学に選ばれるんじゃない。俺が、選ぶんだよ。

なぜその話を受けないのか聞いたとき、東金はそう言ってのけた。
かなでは、どんなことにも妥協を許さないその姿勢を尊敬し、応援したいと思った。
だからこそ、彼にとっての負担にならないようにすることが、今の自分にできる唯一のことだと感じている。

(ええい!未練、未練!)

電話をしたいという誘惑を振り切るように、かなではパチンと勢いよく携帯を閉じると、かばんの中に放り込んだ。
そして、ヴァイオリンをケースから取り出し、練習を始めた。
しんと静まったスタジオの中に、かなでのヴァイオリンの音が響いた。



これが、自分を追い込んでいると言われる原因なのだろうか。
もう何度目になるか分からない通し練習を終えて、かなではため息を吐いた。
これだけ繰り返しても、納得のいく音が出せていない気がする。

――追い込んでいる。

今日は悠人に言われたけれども、指摘されたのは悠人が初めてではない。
響也にも言われたし、引退したはずの律も心配して声をかけてきた。

(あーあ、みんなに心配かけちゃってるな……。)

そんなことを思いながら、もう一度ため息を吐いた。

――大丈夫。

必ず言われるもう一つの言葉が、これだ。

(私の音、大丈夫なのかな?)

かなでの気持ちを少しでも軽くしようと、みんなが言ってくれているのが分かる。
お世辞ではないとも言ってくれる。
でも、不安は消えない。
いくらみんなが言ってくれても、かなでが納得できるだけの、決定的な何かが足りないのだ。

かなでは少し休憩しようと、、スタジオ内にあるピアノの椅子に腰掛けた。
腕時計を見ると、午後7時。
あと1時間は借りているので、まだまだ練習はできる。
かなでは、深呼吸をしながらゆっくりと目を閉じた。

そう言えば、あの日もこの部屋だった。
ソロファイナルの前日、東金が練習していたのも。
もう1ヶ月以上前のことなのに、昨日のことのように鮮やかに思い出すことができる。

あの日の東金は、何度も課題曲である「12のファンタジア第1番」の練習をしていた。
今日のかなでのように、何度も何度も繰り返し。
彼が好まないと同時に、苦手な曲調でもある、それを。
それを繰り返すことは苦痛を伴いそうなことなのに、東金は不思議なことにその状況を心の底から楽しんでいる様子だった。

違う。
あの日だけじゃない。
東金は、いつだってそうだ。
彼はいつも、ヴァイオリンを弾くことを楽しんでいる。
自身が楽しんでいるからこそ、彼の演奏は聴くものを惹きつける力を持ち、魅了する。

(今、私は……)

ヴァイオリンを弾くことを、楽しめているのだろうか。
心の中で自問自答してみるが、答えは明らかだった。
うまくやれているのだろうかと、不安を抱えながら演奏している。
確実に、楽しいから離れてしまっている。

(あの時、東金さんはどんな顔して弾いていた?)

かなでは立ち上がると、もう一度弓を構えた。
また、見失ってしまうところだった。
東金が認めてくれた、かなでの音。
そして、見出すことができた唯一無二の「花」。
そこに至るまでの彼とのやりとりひとつひとつを思い出しながら、曲を奏でる。
思い出すだけで、心がじんわりと温かくなってきた。
やはり練習スタジオに来てよかった。
一人で弾くことで、見えてくることがある。
そばにいなくても、東金の存在は、かなでにとってとても大きなものだと実感した。

(東金さんがいるから、私は見失わずにいられる。でも……)

会えないときを重ねる切なさを教えてくれるのも、東金で……。
切なさと喜びが交じり合い、かなでの今の音を作り上げていた。
そして、通しを終えたかなでは、目を閉じたままじっとした。
先ほどまでよりは、納得の行く音に近づけている気がする。
すると、かなでしかいないはずのスタジオ内に拍手が響いた。

「……!!?」

突然のことでびっくりしたものの、すんでのところでヴァイオリンを落とすという事態だけは回避した。
拍手のした方を見ると、そこにいたのは……。

「と……ととと東金さん?」

いるはずのない人物が目の前にいて、かなでは動揺した。
今、彼のことを思いながら演奏したから、自分は白昼夢でも見てしまっているのだろうか。
スタジオのドアのところにもたれかかり、東金が立っていた。
そんなかなでの思いを知ってか知らずか、東金はいつもどおりの笑顔を浮かべると言った。

「驚いたか?気づくのを待っていたんだが、お前、放っておいたら永遠に気づかなさそうだったからな」
「あ……。全く、気づいていませんでした」
「お前……」

かなでの反応に、東金はため息を吐いた。

「日が暮れたのに寮には帰ってこないし、携帯も繋がらない。このままじゃ、らちが明かないと、お前の行動パターンから考えて、ここに来てみたんだが正解だった」
「え!?携帯……?」

かなでは、無造作に鞄に放り込んであった携帯を慌てて取り出した。
見てみると、ディスプレイには新着メールの表示と、不在着信の表示が出ている。

「あ……。東金さんからメールが着ています。それに電話も」

確認すると同時にほわんと笑ったかなでに、東金はしかたがないなとでも言うように苦笑を浮かべた。

「まったく……。お前といると調子が狂うな。その無防備さかげんを、今日はちょっと叱ってやろうと思っていたんだが」
「あ……ごめんなさい……」
「でも、こうして会えたんだから、そう気にするな」

しゅんとうな垂れたかなでにそう言うと、東金はつかつかとスタジオ内に入り、当たり前のようにピアノの椅子に腰掛けた。
かなではそれを、突っ立ったまま見つめた。

「あの……どうして、ここにいるんですか?」
「お前に会いに来たからに決まっているだろう」
「え?」
「俺がここにいるのに、他に理由なんてあるはずがない」
「あ……ありがとうございます。東金さん、忙しいのに……」

かなでの言葉に、東金は片眉を上げると足を組んだ。

「一つ言っておくが、俺は忙しいなんてちっとも感じちゃいないぜ」
「でも、受験があったりして大変です。神戸からここまで来るのも、3時間くらいかかりますし……」
「……」

申し訳なさそうに言うかなでを見つめながら、東金は口元に手をやった。

「小日向、忙しいって漢字を知っているだろう?」
「はい?知ってますけど」

突然そんなことを言い出す東金に、かなでは小首を傾げて答えた。
そして、人差し指で空に文字を書く。

「忙しいは、心を亡くすって書く」
「そうですね。りっしんべんに亡くすです」
「例えばだ。余裕を持たせたくて、お前に会う時間を削ってみたとする」
「はい」
「でもそれは、結果としてプラスには働かねぇ」
「そうなんですか?」
「ああ。お前が待っていると思えば、忙しいなんて感じないんだよ。お前に会えなくなった時は、俺の心が本当に死んじまった時だ」

東金の言葉に、かなではきょとんとして目を何度も瞬かせていた。
そうしているうちに、東金の言わんとする意味がじわじわと分かってきた。
これ以上の告白があるだろうか。
彼は、かなでに会うことを、かけがえのないことだと感じてくれているのだ。
幸せな気持ちで満たされてきて、自然と笑顔になる。

「その可愛い顔が見られただけでも、来た甲斐があったな」
「え?」
「さて、改めてだが、久しぶりにお前の音を聴きたい。もちろん、聴かせてくれるんだろう?」

甘い雰囲気から一転、東金の瞳が鋭い光を放つ。
やはり、そこが東金だ。
まるで、挑発するかのような光。
ぴりりとした空気を感じて、かなでは背筋を伸ばした。

「ええ。今日は、東金さんに聴いてもらいたい感じなんです」
「へえ」

かなでの言葉に、東金の口の端が、くっと持ち上がる。

「聴かせてくれ、お前の音を」

その言葉を合図に、かなではヴァイオリンの弓を構えた。
そして、弾き始める前にちらりと東金に目をやる。
東金は、先ほどと変わらぬ視線でかなでを見つめていた。
どくんと胸が高鳴る。
この胸の高鳴りは、緊張からくるものなのだろうか。
そうではないことをかなでは感じつつも、集中するために深呼吸を一つした。