〔2〕
かなでは弾き終えると、ゆっくりとヴァイオリンを下ろした。
そして、東金の反応を伺うように、じっと見つめる。
しばらくかなでのことを黙って見つめていた東金だったが、一言呟いた。
「やっぱり好きだな」
その言葉を聞いた瞬間に湧き上がってきた感情を、何と言えばいいのだろう。
かなでは突っ立ったまま、ただ東金を見つめることしかできなかった。
「お前……」
「え?」
東金の目が見開かれた。
何が起こったのかと首を傾げたところで、頬を伝う温かい感触。
かなではそこでようやく、自分が泣いていることに気がついた。
「やだ……。気が抜けちゃって……」
慌てて、手の甲でごしごしと涙を拭う。
すると東金が、手招きをした。
「こっちへ来い」
「え?」
「いいから。ヴァイオリンを置いてこっちへ来い」
「はい」
ヴァイオリンをそっと置いて、東金の方へと近づく。
何でしょうと問いかけるように見つめると、東金は目を細めて笑った。
「いつまで突っ立ってんだ?お前が来るのはここだ」
ポンと膝を叩きながら促され、かなでは動揺した。
「あの……。私、重いんですが!」
「いいから」
焦れたようにそう言うと、東金は強引にかなでの腕を掴み、そのまま膝の上に乗せた。
そうすることによって、かなでの目の前に、東金の顔が来る。
二人は身長差が20cmくらいあるため、こんなに近くで顔を見る機会は滅多にない。
かなでは、みるみるうちに頬が上気してくるのを感じた。
「で……何があった?」
かなでの大きな目の縁に残っていた涙を指先で払いながら、東金がやさしい声で尋ねる。
見つめてくる東金の瞳が、いつになく真剣なもので、隠し事は無駄だと感じさせる。
もとより、東金に隠すつもりはないのだけれど。
「何かがあったって訳じゃないんです。私が一人で勝手に悩んでいただけで……」
「悩み?」
かなでは、ゆっくりとではあるが、正直に自分の気持ちを話した。
「ここのところ、納得のいく音が出せていない気がして仕方がなかったんです。みんなは、大丈夫だって言ってくれたんですが、どうしてもだめで……」
「……」
「この夏、自分の花を見つけられたと思っていたけど、気のせいだったんじゃないかって気持ちになってしまったり……。もうなんだかグルグルしちゃって……」
「お前、しばらく会えない間に、そんなに悩んでいたのか……」
「でも、さっき東金さんの言葉を聞いて気がつきました。足りなかったのは、これだったんだって」
そこまで言ったところで、かなではふうわりと微笑み、確信を持って告げる。
「私、東金さんが足りなかったんです」
「かなで……」
「あ……あの……毎日メールや電話をして、それも幸せなんです。でも、やっぱりこうして東金さんに会える方が、ずっと幸せです」
そう、かなでに足りなかったのはこれ。
東金から一言もらえるだけで、こんなにも安心できる。
まるで、魔法のようだ。
その次の瞬間、かなでは東金にきつく抱き締められていた。
「……まったく。お前はなんでそんなに可愛いんだ。ますます手放せねぇじゃないか」
そう言いながら、東金は抱き締める力を緩めると、かなでの顔を見つめながら髪を何度も撫でた。
それがとても心地よくて、かなではそっと目を閉じる。
「そんな顔、俺以外に見せんなよ」
「え?」
東金の呟きに、思わず閉じていた目を開ける。
それと同時に、髪を撫でていた指が頬へとかかり、東金の唇がかなでの唇に重なった。
久しぶりのキスは、会えなかった時を埋めるかのように長く交わされる。
しかし、まだキスを交わすことに慣れないかなでは、うまく息を継げない。
徐々に苦しくなってきて、目をきゅっと閉じ、思わず唇をきつく引き結んだ。
それを合図に、東金の唇が離れた。
はぁっと大きく息を吸って吐くかなでに、東金は目を細める。
「これくらいで音を上げてもらっては、困るな。慣れてもらわないと」
「もう!だって東金さんが……」
かなでが反論しようとしているのに、もう一度キスをするために東金はまた唇を寄せる。
「俺だって、お前が足りなかったんだ。とことん付き合ってもらうぜ」
切なげに潤んだ瞳に、かなでは言葉を失う。
そしてそのまま、再び唇が重なった。
「お前の花は、この俺が認めたんだ。そう簡単に枯れたりしない」
何度も交わすキスの合間に、東金は、かなでの欲しかった言葉をたくさんくれた。
その言葉は、かなでの胸にすぅっとしみ込んでいく。
今にも枯れそうになっていた花に、水が与えられたかのようだ。
かなでは、もっとと強請るように東金のシャツの胸元をきゅっと掴んだ。
それに答えるように、東金は何度も何度も情熱的なキスをくれた。
彼にとっての自分も、花に与えられる水であるといいなと、かなでは思った。
「これくらいにしておかねぇと、止まらなくなっちまいそうだな」
数え切れないほどキスをした後で、苦笑しながらも名残惜しげに東金はかなでを解放した。
そこでかなでは、はっと我に返って時計を見た。
時刻は、午後7時30分を過ぎている。
それを確認すると、東金の膝から立ち上がった。
「大変、もう少しで時間です!」
「ん?」
「このスタジオは、8時までしか借りてなくて……」
「じゃあ、もう一回、弾いておくか?」
東金の言葉に、かなではぶんぶんと首を振った。
「あの……。突然ですけど、東金さんのヴァイオリンを聴かせてください」
「俺の?」
キスの余韻に浸る間もなく突然そんなことを言い出したかなでに、東金は少々驚いた様子だった。
しかし、かなではお願いと言うように、お辞儀をした。
「東金さんのヴァイオリン……聴いておきたいんです。好きだから……」
「まったく、この俺を振り回すとはな」
ため息を吐きつつも、かなでの我がままに付き合う気になったのか、東金は立ち上がった。
そこでようやく、かなでは自分がムードを台無しにしてしまったことに気がついた。
久しぶりに恋人と会えたというのに。
でも、東金のヴァイオリンを聴きたいのだから仕方がない。
「えっと……。東金さんとキスするのも、好きです。で……でも、ヴァイオリンを弾いてもらうには、今を逃したらまた当分先になっちゃうかなって思ったから」
「いいぜ」
東金はにっと笑いながら、もうすでにカンタレラを取り出していた。
「確かに、ヴァイオリンは、防音施設じゃなきゃ弾くことはできねぇからな。だが、キスは違うだろう?この後、いくらでもできる」
「そうです。……って、え!!」
かなでの顔がぽんと赤くなったのを見届け確信犯じみた笑顔を浮かべると、東金はヴァイオリンを奏で始めた。
◆
10月3日月曜日。
目覚めと同時にカーテンを開けると、雲ひとつ無い見事なまでの秋晴れだ。
夏の深い青とは違う、秋のやさしい青空。
それを見つめながら、かなでは微笑んだ。
土日に東金と会って、エネルギーの補給が充分にできた感じだ。
――きっとうまく行くはず。
心配をかけてしまった悠人たちに、今日の部活でもう大丈夫だと告げなくてはと思った。
しかし、改めてそんなことをする必要は、ないのかもしれない。
ヴァイオリンの音が伝えてくれるはずだ。
演奏を楽しいと思うかなでの心。
そして、かなでの花が今日も元気に咲き誇っていることを。