青信号、進め!
ぼくは、事務所に辞表を提出し、アイドルとしての立場を捨てて、実家へ逃げるように帰ることにした。
ずっと、アイドルである自分に違和感を覚えていたのだから、これで良かったはず。
それなのに、信じられないほどアクセルを踏む足が重くて、心も重くて……。
そんな自分が情けなくて、運転しながらも涙が出てきた。
男はそう簡単に泣くものじゃない、泣いたら格好悪い。
昔からそう言うよね。
でも、どうでもいいや。
だって、ぼくはもうアイドルじゃないんだから、格好良くある必要なんてない。
今は誰も、ぼくのことなんか見ていないんだからさ。
ほんと、もうどうでもいい。
運転している間も、ポケットの中で、携帯電話が何度も鳴った。
着信音で、誰だかすぐに分かる。
後輩ちゃんだ。
彼女だけ、着信音が他の人と違う。
クリスマスの日の夜に、そう設定したからだ。
それは、ただのお仕事のパートナーだった彼女が、ぼくにとって特別な人になってしまった証拠だった。
そう、彼女は、ぼくにとって特別になってしまった……。
赤信号でブレーキを踏み、車を停める。
携帯電話をポケットから取り出すと、不在着信を知らせるディスプレイをじっと見つめた。
電話だけでなく、メールも着ている。
ぼくが事務所を辞めたことを知って、慌てて確認しようとしているんだろう。
ぼくのことを、心配してくれているんだ……。
無意識のうちに、嬉しいと感じてしまった。
こんなことになってしまって、後輩ちゃん、泣いていなければいいけれど……。
そんなことを考えたところで、ぼくは唇をきつく噛んだ。
噛みしめた唇と一緒に、胸も痛い。
ぼくにはもう、彼女に心配してもらう権利も、心配する権利もないんだ。
事務所を辞めると同時に、ぼくは彼女のパートナーではなくなったのだから。
未練のすべてを断ち切るように、ぼくは携帯電話の電源をOFFにすると、後部座席にポンと放り投げた。
ちょうど信号が、青に変わる。
「バイバイ。春歌ちゃん……」
もう君には届かない、お別れの言葉。
初めて君の名前を呼んでみたら、ますます胸が痛んだ。
女々しい自分を振り払うように、ぼくはアクセルを踏み込んだ。
◆
都内のマンションから埼玉の実家へと向かうこの道を走ったのは、つい数週間前のこと。
でも、今日は逆だ。
埼玉を出て、都内へ。
数え切れないほど往復したこの道を、車に乗って走っていくだけなのに、今日は不思議なくらい心も体も軽い。
きっとそれは、助手席に後輩ちゃん……君が、乗っているからだろうね。
運転しながらも分かる。
君が、ぼくの顔をじーーっと、穴が開きそうなくらい見つめていることを。
外の景色には、目もくれずに。
ちょうど赤信号に突き当たり、ブレーキを踏んだ。
いつも通っている道だから分かるんだ。
ここの赤信号は、ちょっと長い。
車が停止すると、ぼくは助手席の方へ手を伸ばした。
そして、膝の上でお行儀よく組まれている後輩ちゃんの手に、自分の手をそっと重ねる。
「こ、寿先輩……!?」
うわずった声で、君がぼくの名前を呼んだ。
ちらりと見ると、ゆでだこのように真っ赤な顔をしている。
ほんと、かわいいな。
でも、今は伝えなくちゃいけないことがある。
「大丈夫だよ」
ぼくはそう一言呟くと、彼女の手をぎゅっと握った。
「もう、君の前からいなくなったりしないから」
「あ……」
「それにそんな熱視線をずっと送られていたら、お兄さん、ドキドキして運転に集中できないよ」
冗談めかしてそう言いながらウィンクをひとつ送ると、彼女は口をパクパクさせた。
あーーー、マジでマジでかわいすぎる。
そう噛みしめたところで、信号が青に変わった。
「残念。青になっちゃった」
名残惜しいけれど彼女の手を離すと、ぼくはハンドルを握った。
「後輩ちゃんの手を、もうちょっと握っていたかったなぁ。このまま青にならなくていいのにな」
「あ、あの。それは困ります……」
「えーー。君は、ぼくに手を握られるの。いや?」
車を走らせながら、ぼくは彼女に尋ねた。
「と、とんでもないです!いやな訳ありません……。その……ドキドキして、わたしの心臓が持たないので、ですから……」
想像通り……というか、それ以上の答えが返ってきて、柄にもなく、ぼくの心臓もドキドキしてきてしまった。
「そっかー。ドキドキしちゃうのか。じゃあ、慣れてもらうために、もっと手を握ってあげるね。さーて、赤信号にならないかなー」
冗談みたいに言ったけど、ぼくは本気でそう思いながら走っていった。
でも、こういうときほど全部青信号で、車はスムーズに進んでいく。
ぼくが運転しているのをいいことに、相変わらず、君は熱い視線で見つめてくる。
これ、新手の拷問?
そんなことを考えているうちに、あっという間に、彼女の家である事務所の寮に着いてしまった。
車を駐車場に入れると、エンジンを止めた。
「それじゃあ、また明日。シャイニーさんや龍也先輩に、めっちゃ怒られるだろうな。でも、ちゃんとやるからよろしくね」
「は、はい……」
君はそう返事をすると、じっとぼくの顔を見つめてきた。
やばい、やばいよ、後輩ちゃん!
そんな顔で、男の顔を見つめちゃ!!!
うっかり、キスしたくなっちゃうよ。
でも、今はそういう状況じゃないし、それに一度スキャンダルを起こしてしまった以上、慎重にならなくちゃいけない。
それに、君がぼくの顔をこんなに見つめてくる理由も分かっている。
……まだ、不安なんだよね?
大切な人が、ある日、突然消えてしまったら……。
そのとき人は、どんな気持ちになるのか。
その気持ちを痛いくらいに分かっているぼくなのに、君に対して同じことをやってしまった。
君をとても傷つけた。
ぼくの胸以上に、きっと君の胸も痛いんだ。
でも、本当にもう大丈夫なんだよ。
君の前から、ぼくは二度と消えたりしない。
君の心に、音楽に触れて、ぼくは前に進もうって決めたんだから。
ぼくは、周囲の様子を伺った。
人の気配はない。
それを確認すると、ゆっくりと手を伸ばし、彼女の手を握った。
「先輩……」
ぼくが真剣な顔をしていたからか、今度は恥ずかしがらずに、彼女も握り返してくれた。
「赤信号にならなかったから、ここで君の手を握っておくね」
「はい」
「……慣れそう?」
ぼくが首を傾げて顔をのぞき込むと、照れてしまったのか俯いてしまった。
そんな彼女の指に、自分の指を絡めてみる。
これは、恋人同士がする繋ぎ方。
でも、君はいやがらずに、指を絡めてくれた。
これは、期待してもいいのかな?
「慣れるのは、まだ……無理……です」
「じゃあ、君がぼくの車に乗るときは、赤信号のたびに握ることにするね」
「え!そ、それは……」
「うーーん。君が車に乗るときは、ずっと赤信号ならいいのにね」
「ダメです!さっきも言いましたけど、ドキドキして持ちません……。そ、それに、ずっと赤だと、前に進めませんし……」
彼女の言葉に、ぼくは、はっとした。
これは、一本取られた。
「あはは。そうだね。ずっと赤だと、前に進めない」
突然笑い出したぼくに、彼女はきょとんとした。
「前に、進まなくちゃね……」
ぼくは、握った彼女の手を引き寄せて、そのなめらかな手の甲に頬ずりした。
この手が音楽を作りだし、ぼくを闇から引っ張り出し、前へ進む勇気をくれた。
「……はい」
そう返事をすると、彼女がにっこりと笑った。
ぼくは、彼女の手の甲にチュッとキスをひとつ落とす。
「せせせ、先輩!?」
百面相とは、こういうことを言うのかな。
彼女の顔は、また真っ赤になってしまった。
「おやすみ、マイ・ガール。また明日ね。ぼくは、もういなくなったりしないから。これは、誓いのキスだよ」
もう一度、手の甲にキス。
ほんとは、こんなところじゃなくて、その真っ赤なほっぺや柔らかそうな唇にしたいんだけど。
それは、順を追ってね。
「はいっ!また明日」
頬を染めながらも微笑む君への愛しさが、溢れて止まらない。
これからは、赤信号を言い訳にしないで、君の手を握るから。
だから、よろしくね。
一緒に進もう、マイガール。
春歌ちゃん……。
ぼくは、心の中で君の名前を呼んだ。
近い未来、声に出して呼んで、必ず君に届けるから。
嶺二先輩は、後輩ちゃん呼びを貫いていて、最後の最後でやっと春歌ちゃんって呼んでくれて、嬉しかったです。でも、心の中では呼んでくれていたら嬉しいよなと、妄想しました。