愛か恋か

――愛しい子

出会った頃から、天海はゆきのことをそう呼ぶ。
当時の天海は、”白衣の宰相”と呼ばれる身分の高い上品な大人の男の人だったから、ゆきはその呼び名をすんなり受け入れてしまっていた。
しかし、そう呼ばれることに違和感を覚えだしたのは、いつからだろうか。
……とりあえず今は、かなり違和感を覚えている。
”愛しい子”と特別な響きで呼ばれることに嬉しさを感じるけれど、その呼び名は恋人としてはどうなのだろうか、と。

「どうしたのですか?愛しい子。先ほどからずっと、顔を曇らせて」

ゆきは、ふとした瞬間にそのことに気がついてしまい考え込んでしまっていた。
しかし今は、天海とカフェでお茶をしながら話しをしているところで、考え事に適する状況ではない。
心ここにあらずな様子を天海に尋ねられてしまっても、仕方がない。
気になると状況を省みず考え込んでしまうのは、ゆきの悪い癖。
はっとしたゆきの髪を梳くように、天海の長く綺麗な指先が絡んだ。
その指先が、髪だけでなく首筋にも微かに触れて、くすぐったさに我に返った。

「あ……天海……。ここは、人がいっぱいいるから恥ずかしいよ……」
「おや、つれない子。私を目の前にして、君が心ここにあらずな様子なのがいけないのですよ」

ゆきは、天海の指先から逃れようと思わず肩を竦めた。
しかし、それは無駄な抵抗だ。

「ご……ごめんなさい。でも天海、目の前と言うか、隣に座っているよね。こういったお店って二人で来た場合、普通は向かい合って座るものだし……」

今、天海はゆきのすぐ隣の席にぴったりと寄り添うように座っている。
だから、天海の甘い指先からゆきは逃れることができない。

初めてこの世界で天海とお茶をしたときから、そうだ。
街でデートをしている一般的なカップルを見ると、こうしたカフェでは向かい合って座るのが普通だ。
しかし、天海は違った。
普通は違うといくら言っても聞かず、必ずゆきのすぐ隣に座る。
そしてそれを、今では当たり前のこととしており、ゆきも結局受け入れていた。
天海は、人が持つ”普通”という概念の枠に大人しくはまる存在ではないことを、ともに過ごすうちに実感したからだ。
ある意味、諦めとも言える。
でも、ゆきからしてみればこうして天海に触れられるのはまだ慣れないし、人前と言う恥ずかしさもあるから、時折反発してしまう。
いつだって、無駄な抵抗になってしまうのだが。

「君は、まだそのようなことを言っているのですか。向かい合って離れていたら、もしものときに君を守ることができないでしょう」
「それはそうだけど……。この世界だと、”もしも”って起こりにくいんだもの……」
「それに、私といてもぼんやり他所事を考えてしまう君を繋ぎとめておくためにも、必要でしょう?ですから、君がいけないのですよ」

髪を梳かす指先の動きはそのままで、天海は続けて尋ねてきた。

「さあ、教えてください。君の心を支配しているのは、いったい何なのですか?」
「……。天海って、私のことを”愛しい子”って呼ぶけど、どういう意味なのかなって考えてしまっていたの……」

ゆきの言葉に、天海の指の動きが止まった。

「”子”って付けるくらいだから、大きな愛……人類愛的なものなのかな、とか……」
「……人類愛……ですか」
「だって、天海は神様だから、人に対する等しい愛のような大きな意味を持っているのかもって考え出してしまったの。それで、どうしてだろうって思ってしまって……」

席の座り方も普通でなければ、会話も普通でない。
こうしてささやきだけで会話が出来るこの距離感は、二人にとって丁度良いのかもしれない。
ささやきで聞き取れる距離なのに、天海はさらに距離を詰めてゆきの耳元にささやいた。

「ゆき、可愛い子……」

耳たぶに唇が触れそうなほどの位置から吹き込まれる天海の声。
その艶めいたささやき声は、まだ少女に域を脱しきらないゆきには刺激的過ぎる。
そして、再び動き始める指先。

「私が君以外にそのような呼び方をしているのを、聞いたことがありますか?」
「……無いと、思う……」

天海の声と指先にまともな思考を奪い取られてしまってはいるものの、記憶を辿ると確かに無い……気がする。

「君がいやだと言うのならば、その呼び方をやめるようにしましょう。しかし、出来る限りですがね」
「別に、いやじゃないの……」
「それなら良かった。私は、君が愛しくて可愛くて仕方ありません。気をつけていたとしても、ついそう呼んでしまうでしょうから」
「うん、分かった……。分かったから、耳の近くでお話しするの、やめて……?くすぐったいよ」

ようやく天海は、ゆきの耳元から唇を離した。
甘いくすぐったさから解放されて、ほっと安堵の息を吐く。

「何度も言っているはずですが、私は君の前では神である前に、恋をする一人の男です。君が何かに心を奪われていると、それが何であるのかとても気になります」
「ごめんなさい……」
「今日は私のことで心を奪われていたことが分かりほっとしています。しかし、おもしろくないですね……」
「どうして?」

天海は、うっとりするくらい優雅な笑みを浮かべると言った。

「私の君への想いを、神としての人類愛だと捉えられてしまうとは……。それは、私の力不足でしょう」
「そんなことないよ。私が変に考えすぎただけだと思うの」
「いえ、私が至らぬせいですよ。今宵は、じっくりと教え込まなければなりませんね。私が、君に恋をする一人の男であるということを……」

恥ずかしいことを平然と言う天海に、ゆきは慌てた。
いつもより、声が大きい。
しかも、内容はかなり際どいことで、鈍いゆきでも恥ずかしくなってしまうくらいのこと。

「天海……。声が大きいよ。そういうことは、内緒で教えて?」
「おや、先ほど耳の近くで話すのはやめて欲しいと言ったのは君ですが?」
「それとこれとは、別だよ……」

”教えて”とは言うものの、”言うな”とは決して言わない愛しい子。
俯いたゆきの耳元に、天海は囁いた。

「ゆき、愛しています。誰でもなく、君を……」

ゆきだけに捧げる愛の言葉とともに、赤く染まった耳たぶにそっと口付けを落とした。

喫茶店とか入ると、普通は向かい合って座りますよね?(←一応確認)
こんなカップルがリアルでいたら嫌だけど、天ゆきならありだよね!