神様のお気に入り

自分の好きなものを、相手も好ましいと思ってくれるとすごく嬉しい。
ゆきは、よくそう口にする。
それは、普段何気なく見ている景色だったり、植物園に咲く薔薇のよい香りだったり、ふと耳にしたメロディだったり……。
それらを天海と共有できることを、とても幸福だと感じていると。
そして今、手作りのケーキを口にする天海を見つめながら、ゆきは目を細めている。
そんな彼女を見て、天海も幸福を感じる。
彼女と過ごす時間。
人として、彼女の住む世界にやって来たことに、天海は大いなる価値を見出していた。

「今日持ってきたケーキはね、お母さんに習ったの。おいしくできたと思うけど……どうかな?」

ケーキという名の異国から伝わった食物を、フォークと呼ばれるこれまた異国から伝わった道具を使い、口の中に運び咀嚼して味わう。
この一連の流れは、天海の実態が呪詛から解放され、ごく最近覚えた行為ではある。
しかし、それらの行為に、ぎこちなさは全く見られない。
天海が、呪詛を受けながらも、白衣の宰相として人に混じり生活していた時間が長かったせいもある。
だが、ゆきが作ってくれる料理を食べる機会がたくさんあることで、その行為に慣れてきたのが一番大きな要因だ。

「初めて食べましたが、甘さも程よくておいしいですよ」
「よかった」

天海の答えに心の底からほっとした様子で、ゆきは微笑んだ。

「そのケーキ、私の大好物なの。だから、天海においしいって言ってもらえて嬉しい」

そう言って微笑む彼女は、とても嬉しそう。
花のような笑顔が見られて、ゆきとは違う意味で天海も嬉しく感じた。
口にしたものをおいしいと感じるのも、相手が笑顔になって嬉しいと感じるのも、すべて彼女が天海に教えてくれたもの。
神である自分が、人として得るそれらの感情を心地よく受け止めている現実を不思議に感じながらも、すでに手放す気はない。
むしろ、もう手放しては存在できない域に、天海は踏み込んでしまっている。

「こうして君と過ごしながらも感じるのですが、これまで、口という器官は私にとって言の葉をつむぐ以外に存在する意義などなかった……。それを、食物を摂取するのに使うようになるとは、不思議なものです」
「……不思議なの?嫌じゃない……?」

途端、ゆきは不安げな表情を浮かべる。
そんな彼女を慈しむように、天海は穏やかな声で答えた。

「嫌ではありません。君が不安に思うことは何もありませんよ。こうして、人の子である君と感覚を共有できるのは、なかなか楽しいものです」
「そうなの?」
「ええ。例えば”口”ひとつにしても、喋る、味わう以外にも使い方があることを、君は教えてくれました」
「……?」

目を瞬かせながら首を傾げたゆきに、天海は手招きをする。

「ゆき、こちらへいらっしゃい」
「どうして?」
「すぐに分かりますから、いらっしゃい」
「これくらいで、いい?」

ゆきは、少し気恥ずかしそうにしながらも、素直に天海との距離を詰めた。
しかし、元々二人は隣合わせに座っていたのだから、それほど詰めたわけではない。
天海は、形の良い眉を顰めて呟いた。

「これでは、まだ少し遠いですね」
「でも、これ以上は……」
「私の膝の上にいらっしゃい。そうすれば、丁度いいです」
「え……」

有無も言わさずに、天海はゆきの身体を自分の膝の上に乗せた。
そうすることにより、長身の天海とゆきの顔が、ごく近くで向かい合う位置になった。

「そうですね……。喋る、味わう以外の口の使い方です」

そう言うと、天海はゆきの頬に口付けた。

「こうして、君を可愛がるときに口を使うのですよ」

そのまま反対側の頬、額、鼻の頭、顎へと啄ばむような口付けを繰り返す。
ゆきは、目をぎゅっと閉じてくすくすと笑いながら、天海からの口付けを受けた。

「天海、くすぐったいよ……」
「ゆき、可愛い子……」

繰り返される戯れのような口付けは、顎から首筋へと移された。
ゆきは、相変わらずくすぐったがって、微かな笑い声を上げる。
子猫同士のじゃれあいを思わせる行為。
その愛らしさを目の当たりにして、天海の中にある衝動が生まれた。

「食べてしまいたいほど可愛い……という言葉を聞いたことがありますが、今、その気持ちがとても分かる気がします」

ゆきの白い首筋に何度か口付けた後で、天海はそこに軽く歯を立てた。
途端、ゆきの身体がふるりと震えた。

「だめ……天海……。私、食べ物じゃないよ?」
「ええ、分かっています。食べてしまいたいと言うのは、あくまでたとえですよ」
「それなら、いいけど……」
「ふふ、怖がらせてしまいましたか?私は、人を食べるようなことはしませんよ。第一、君を食べてしまったら、こうして可愛がることができなくなってしまいます」
「うん……本当に食べられちゃうとは思ってないよ。でも、ちょっと首が痛かったから……」
「ああ、加減が出来ていなかったのですね。大切な君を、乱暴に扱ってしまうつもりは無かったのですが……」

天海は、先ほど歯を立てた首筋を労わるように、今度は優しく口付ける。
そして、今度は白くて柔らかな肌に歯を立てるのを止め、代わりに舌を這わせた。

「あ……天海、だめ……」

みるみるうちにゆきの頬は赤く染まり、熱い吐息が唇から零れる。
先ほどまでの可愛らしい表情から一変、艶めいた表情を見せる。

「だめ、ですか。乱暴にしても、優しくしても、君の唇から出てくるのは拒絶の言葉ばかり……。困りましたね」

ため息をつきながら、天海はゆきを膝の上から下ろそうとした。
言葉とはうらはらに、彼女が本当に嫌がっている訳ではないことは分かっている。
分かっていて、敢えて突き放してみる。
すると、ゆきは首を振りながら、下ろされまいと天海の肩をぎゅっと掴んだ。

「だめ……。離さないで……」
「これも、だめですか。では、私はいったいどうすればいいのですか?」
「ごめんなさい、混乱させて。……本当は、もっと天海に触れて欲しいの」
「君は、先ほどだめと言いましたが」

ゆきは、恥ずかしそうに天海の胸に顔を埋めて続けた。

「触れられて嬉しいよ……。でも、天海に触れられていると、もっと触れて欲しくなってきて……。それで私……おかしくなりそうだから、ついだめって言っちゃうの」
「もっと触れて欲しいのですね。それならば、君は私にどこに触れて欲しいのですか?君の望むとおりにしましょう」
「それは……」

天海にしがみついたまま、ゆきは言いよどんだ。
天海は可能な限り優しい仕草でゆきを離すと、顔を上向かせた。
そして、その顔を覗き込みながらもう一度尋ねる。
天海の青と紫の神秘的な瞳は、すべてを見通すようで、それがさらにゆきの気恥ずかしさを煽るようだ。

「私にどこに触れて欲しいのですか?教えてください、愛しい子……」
「だって、教えるなんて恥ずかしい……」
「恥じらう君もなかなか可愛らしいですが、教えてもらえないことには分かりません」
「……」

その視線から逃れ、伝えることは無理であることを主張するように、ゆきは目をぎゅっと閉じ、首を振った。

「無理ですか……。仕方ありませんね。思いを言の葉に乗せるのが難しいのならば、私に触れることによって教えなさい。どうですか?」
「それなら、できる……かも……」

ゆきの閉じられていた目が、ゆっくりと開かれる。
でも、まだ躊躇しているのかかすかに揺れている。
そんな彼女を、天海は促してやった。

「それでは、教えてください」
「あの……緊張するから、目を閉じてもらってもいい?」
「分かりました」

目が閉じられると同時に、ゆきは天海の頬にそっと触れた。
そして、その唇に自分の唇を軽く重ねる。
ほんの一瞬だけど、ゆきにとっては精一杯のキス。
彼女がそんなことをするとは思っていなかった天海は、面食らったような表情を浮かべて目を開けた。

「言葉にできないと言うからには、どこかと思えば……。私の唇を奪うだなんて、君はなかなか大胆ですね」
「そう……かな……?」
「こうして行動に移すほうが、人の感覚としては、よほど羞恥心を覚えそうな気がしますが……。違いますか?」
「そ……そんなことないと思う……けど……。ひょっとしたら、私がおかしいのかもしれない……。自信ないよ……」

天海に指摘されて、ゆきの声がどんどん小さくなってくる。
その様も愛らしくて、天海は目を細めると、ゆきの唇に親指でそっと触れた。

「ふふ。私は君のそういうところも好ましいと思っているので、それでいいのですよ」

ゆきが、天海の瞳をじっと見つめてくる。

「唇に、触れて欲しかったのですね」
「だって今日の天海、まだ唇にキスしてくれてない……」

焦らしたつもりはなかったのだが、結果としてそうなってしまっていたようだ。
触れている親指で、ゆきの唇を徐々になぞっていく。

「んっ……」

その行為が、ゆきの熱を高める。
そして、熱のせいで潤んだ瞳が、天海に早くと訴えてくる。
もう愛しい想いを、抑えることができない。

「私に触れられると、もっと触れて欲しくなると君は言いましたね。しかし、先ほど君に触れられてみて、私は違う思いを抱きましたよ」
「違う思い?」
「……もっと君に触れたい」

そのまま、ゆきの唇に天海は自身の唇をそっと重ねた後で囁いた。

「私の口は、君を可愛がるため……。目は、その愛らしい顔を見つめるため……。手は、触れることにより、薔薇色に染まる君の肌の熱さを確かめるため……。今、私の感覚は、すべて君のためにあるのですよ」
「天海……」
「永劫の闇の中で、君という存在を知らずにいたころは、五感など何の意味も成さなかった。だからこそ、意味を与えてくれた君が、愛しくてたまらない」

腕の中にあるゆきの身体をさらに引き寄せると、再び唇を重ねた。
今度は、より深く。

「ん……天海……」

頬を染め、眉根を寄せたゆきが、天海の肩をとんとんと叩く。
仕方なく、一度唇を離してやった。

「どうしたのです?愛しい子……」
「くるし……から」
「今日の君は、そればかりですね。しかし、口付けを所望したのは、君の方です。それは、君が体を硬くして息を止めているせい。いいから、私にすべてを委ねてしまいなさい」
「そ……だけど……」

それ以上の反論を許さぬと告げる代わりに、ゆきの唇を塞いだ。
天海の熱い舌先が、ゆきの口腔内を探るように這い回る。
ゆきの肌も唇も熱い。
それ以上に、柔らかな舌は、溶けてしまいそうなほど熱い。
その熱さに煽られ、夢中で口付けた。
すべてを味わい尽くすほどの執拗な口付けだが、ゆきは先ほどのようにもう止めることはしなかった。
息をするのもやっとのような口付けだけれど、それをゆき自身が心地よいと感じているのも事実。
口付けの合間に漏れる吐息や薔薇色に染まった頬、うっとりと閉じられている瞼が、確かにそう語っている。

「君を食べることはできませんが、こうして味わうことができますね。君は本当に甘い……」
「っ……」

口付けの合間にそう語りかけると、ゆきは閉じていた瞼を持ち上げて、何かを訴えかけるような視線を送ってきた。

「天海って……」
「……?」
「どこで、こういうこと覚えて来たの?」

ゆきは、素直に疑問に感じたことを口にしたのだろう。
首を傾げる様子が、彼女を幼く感じさせる。
少し上がった息が扇情的で艶めいているのに、まるで幼子のような仕草。
そのアンバランスさが、天海を堪らない気持ちにさせる。

「気になりますか?それとも、私の口付けの作法におかしなところでもありますか?」
「私は、経験がないからよく分からないの。でも……すごく上手だと思うから……」
「……ゆき、神を侮ってはいけませんよ」
「答えになってないよ、天海……」

不満げに尖らせた可愛らしい唇に、天海は再び唇を寄せる。
二人の唇が重なる直前に、ゆきが呟いた。

「知ってる?天海。今の私の五感もあなたを感じるためにあるんだよ」

その言葉さら味わうように、天海は目を閉じて唇を重ねた。

本当に、どこで覚えてきたんでしょうね?けしからん神様です。