この苛立ちは、何処へ行くのだろう?

苛立ちの行方

出雲から東へ向けて、天鳥船が飛び立ってから数日が経った。
昼間はにぎやかな船内も、夜になれば静寂に包まれる。
空を飛んでいるのを、忘れてしまうほどに。

忍人は寝台に横たわり、幾度目か分からない寝返りを打ち溜息をついた。
出雲での戦を終えて、数日経ったのに未だに疲れが取れない。
それなら休めがいい。
だが、忍人の身体は休息を求めているにもかかわらず、眠れない状態が続いている。
出雲での連戦で、あまりに疲れたせいなのか。
それとも、以前よりも鳴く破魂刀のせいなのか。
……原因は、まだ分からない。
そして、常に頭を支配するゆらゆら揺れるような感覚も、空を飛ぶ天鳥船のせいなのだろうか。
今日も、眠れない夜になりそうだ。

すると、石でできた扉をこつこつと叩く音がした。
もう、夜はかなり更けているはずだ。
このような刻限に訪問とは不謹慎なと心の中で舌打ちをし、眠ったふりをしてやり過ごそうかと思った。
しかし、扉を叩く主はなかなか諦めようとしない。
しかも扉を叩く主が誰であるのか分かり、このままやり過ごすことなどできる相手でないことが分かった。

「忍人さん……起きていますか?」

諦めずに扉を叩いてはいるものの、夜遅いことを気にしてはいるのだろう。
遠慮がちにかけられる小さく微かな声。
それでも、聞き違えるはずがない。
二ノ姫……千尋だ。
忍人は徐に寝台から起き上がると、扉を開けた。

「あ……」

ようやく顔を出した自分は、よほど不機嫌そうな顔をしていたのだろうか。
扉を叩いていた千尋は、短い呟きとともに蒼色の目を泳がせて俯いてしまった。
肩で切りそろえられた金色の髪が、顔を隠すようにゆらりと揺れる。

「このような刻限に君は……。いったい、どうしたんだ?」

夜遅くに一人で出歩いていること、男の部屋へ一人で訪問すること。
彼女の軽はずみな行動を注意したい気持ちが大いにあったが、それらの感情をできる限り抑えて声を掛ける。
何か、事情があるのかもしれない。
俯いていた千尋は、微笑みながら顔を上げた。
そして、手にしていた袋を見せながら言った。
ずいぶん大きな袋だ。

「お茶を飲みませんか?身体が温まって、よく眠れるんじゃないかなと思って」

彼女の唐突とも言える提案に、忍人は目を瞠った。
すると気まずそうに、千尋は続ける。

「夕方に堅庭で会ったとき、忍人さん、すごく疲れている様子でしたから……。戦の疲れがまだ取れていないのかなと、心配になってしまったんです」

余計なことでしたか?と困ったように首を傾げて呟く千尋に、忍人はようやく事態を理解した。
彼女なりの気遣いを、忍人なりに嬉しくは感じる。
夜の訪問という軽率な行動自体は褒められたものではないが、寝る前にわざわざ届けてくれたその気持ちを、今夜は大切にしようと思った。

「君の気持ちを嬉しく思う。有難くいただこう」

そう言って千尋の持っている茶葉の入っているであろう袋を受け取ろうとしたが、千尋は違うというように首を振った。

「あの……今から、私がこのお茶を淹れます。リブから、おいしい淹れ方を習ってきたんです。特別に茶器も借りて来たんですよ」
「君が?」
「はい」

満面の笑顔で頷くと、千尋は伺いを立てるように首を傾げてたずねてくる。

「少しだけいいですか?すぐに淹れますから」
「千尋、君は少々……」
「すぐに終わりますから」

諌めようとする忍人の言葉を遮ると、千尋は部屋へと入ってきて、嬉々として茶器を取り出した。
彼女の強引さに呆れながらも、拒みきれない自分もたいがい甘いものだと忍人は溜息をついた。

「茶葉の量とか、蒸らし時間とかが難しいんですよ。少しでも間違えると、お茶のおいしさが消えてしまうんです」
「君が、そんなに茶に関して詳しいとは知らなかったが……」
「あはは……実は私、そんなに詳しくないんです。おいしい淹れ方を、リブに教えてもらったんです。アシュヴィンがお茶にうるさいから、リブの淹れるお茶はとてもおいしいんですよ」
「……」
「なかなかリブから合格点をもらえなくて……。やっとさっき、合格したところなんです」

彼女の言葉から、先ほどまで、常世の者たちのところへいたことが分かった。
その言葉を聞いた瞬間、忍人の胸に、ちりりとした感情が流れた。
彼女はすでに、出雲から同乗することになった常世の者たちと親しくしている様子だ。
誰とでもすぐに打ち解けられるのは美徳とも言えるが、仲間になって日の浅い者のところへ通いつめるのは、一軍を率いる将として油断しすぎではなかろうか。
しかも相手は、敵対していた常世の者たち。

「君は随分、常世の者たちと親しくしているんだな」
「え?」
「仲間になったとは言え、まだどう転ぶのか分からない。そのような相手のところへ気軽に出入りするのは、一軍を率いる将として、軽率ではないのか?」
「でも……みんないい人たちですよ」
「……」

精一杯の皮肉を言ったつもりなのだが、千尋には通じていないようだ。
事の重大さをまったく理解していない彼女に、苛立ちが募る。

「君は、”いい人たち”と言うが、それが真実なのか?”いい人”と思わせるのも、作戦の一つかもしれない。単独で行動している中つ国の将たる君が油断したところを狙い、首を獲らんとする輩がいないとも限らないんだ。そうなったとき、君は自分の身を守れるのか」
「でも、リブのところへは一人では行っていませんよ。今日は足往も一緒でしたし……。アシュヴィンもいました……。それに、いざとなったら自分の身は自分で守れるように、いつも訓練しています」
「……君は、まったく分かっていない」

忍人の苛立ちは、極限に達した。
彼女に、その認識の甘さを分からせなくてはならない。
茶器を置いた千尋の手首を、ぎりりときつく掴んだ。
苛立ちを、ぶつけるかのように。
その痛みに、千尋は眉を顰めた。

「忍人さん……?」

事態を理解できていない様子の千尋の反応に、忍人は力を弱めてやるどころか、ますますきつく掴んだ。
そして、もう空いているもう片方の手首も同じように掴み上げる。
あまり突然すぎる行為。
両手を拘束したまま、石でできた壁に、千尋の華奢な身体をじりじりと追い詰めた。
背中に硬い壁の感触を感じて、千尋は大きく目を見開く。

「怒っているんですか?」
「怒ってなどいない」
「忍人さん……」
「自分で自分の身を守ってみるんだ」
「え……?」
「さっき君は言っただろう。いざとなったら自分の身は自分で守れると。それを、今ここで証明してみせるんだ」
「……」
「それとも、さっきの言葉は嘘だったのか?」
「……そんなこと……」

忍人の言葉に、千尋は唇を噛み締めた。
どうやら手首の拘束だけでも解こうと、力を振り絞っているようだ。
しかし、男と女では力の差が歴然としている。
千尋にとって精一杯の抵抗でも、忍人にとってはほんの小さなもの。
そんな小さな抵抗を抑えることなど、鍛錬を積んだ忍人にとっては容易いことだ。
ますますきつく手首を締め上げる。

「弱い」

短くそう言うと、忍人は壁に千尋の身体をさらに押し付け距離を詰めた。
忍人の気迫に、千尋はたじろいだ様子だったが負けじと抵抗を試みる。
だが、無駄なあがきだった。
互いの息遣いを感じることができるくらいまで距離が縮まったところで、忍人は千尋に囁いた。

「分かっただろう?君は、弱い」
「……」

見開かれていた蒼色の瞳が揺れて、伏せられる。

「常世の者のところへ行くだけじゃない。こうして夜遅くに男の部屋へ一人で来ること自体、君は危険なことをしているんだ。君の腕力では、男には敵わない。自分の力で何とかなるなんていう甘い考えでいてもらっては困る」
「でも、私……」
「まだ言い訳をするのか?」
「忍人さんだから、一人でも来たんです……。忍人さんだって、いい人です。他の人のところだったら、一人では行きません」
「千尋……」

伏せられた蒼い瞳に、長い睫毛が影を落とす。
彼女の言葉に、眩暈を覚えた。
信頼されている喜びと、信頼されすぎている苛立ちが混じり合う。

「君は、俺だから来たと言ったが、俺が信頼するに足る人間だと思っているのか?」
「忍人さんだから、来たんです……。忍人さんは、危険なんですか?」
「これでも?」

忍人は、左手首を拘束していた手を離した。
そしてそのまま、千尋の頬に手を添えた。
伏せられていた千尋の瞳が、はっと開かれた。
彼女の唇に、己の唇を寄せていく。

「これでも君は、俺を信頼できるのか?」

その瞬間、千尋の身体に緊張が走り、硬くなった。
見開かれた瞳が、再び伏せられていく。
紅を引いているわけではないのに、微かに薄紅色の唇が戦慄くように震えている。
明らかに見える怯えの色。
それなのに……。
片手だけとはいえ拘束を解いたのに、彼女に抵抗する様子は見られない。

――なぜ、俺を振り払わない?

自分も、彼女の言うところの”いい人”だからなのだろうか。
何もかもが、おもしろくなかった。
筆舌しがたい感情に支配されたまま、忍人はそのまま唇を重ねた。

「っん……」

重ねた互いの唇の隙間から、甘い声が漏れた。
戦場では、凛とした響きを放つ千尋の声。
それが、今はこんなに甘く感じられる。
この声をもっと聞きたい。
忍人は角度を変えて、触れるだけの口付けを夢中になって繰り返した。
柔らかな唇に溺れていく。

「おし……ひとさ……」

口付けの合間に名前を呼ばれ、急速に理性が呼び起こされる。
忍人ははっとして、口付けをやめると身体を離した。
身体から力が抜けてしまっているのだろうか。
石の壁にもたれたまま、千尋は忍人を見つめてくる。
強く掴みすぎた手首には赤い痕が残り、何度も重ねたことにより唇は濡れている。
忍人の行為を糾弾するでもなく、ただ見つめてくる。
そんな彼女の姿を美しいと感じると同時に、己の本当の気持ちを自覚し、忍人の内に苦いものが広がっていく。

苛立ちのままにしてしまった行為。
この苛立ちは、将としての彼女の軽率な行動を諌めるためのものではない。
忠義を盾にした、恋情から……いやそんな生易しいものではない、醜い嫉妬心から来たものだ。
ようやく正体の分からなかった感情が何であるのかを自覚したものの、そのやり場が忍人には分からなかった。
今度は戸惑いに支配され、言葉が出ない。

「……お茶を、淹れますね……」

千尋は淡く微笑むと、置きっぱなしになっていた茶器を手に取った。

「なぜ……」

忍人の行為を一向に責めてこない千尋に、思わず呟く。

「将として、君は俺を糾弾すべきだ。なのに、なぜ?」
「だって、忍人さんは怒らなくちゃいけないことなんてしていませんから……」

忍人の問いに、千尋は背を向けたまま答えた。

「……嫌ではなかったと?君は、こういうことをされても、誰でも簡単に許せるのか?」
「違います!」

千尋は振り返ると、忍人をきっと見据えてきた。

「さっきも言ったじゃないですか。忍人さんだから、一人で来たんです。忍人さんだから、とても心配になって……。私……」

語尾がどんどん小さくなっていくと同時に、千尋の頬がみるみるうちに赤くなっていく。
彼女は、なんて愚かなことを言っているのだろう。
しかし、そんな彼女を愚かというのならば忍人も同じことだ。
彼女への想いを自覚してしまった今となっては。

「君は、愚かだ……。そして、俺も……」
「え……?」
「だが、それも悪くはないのかもしれない」

苦い感情を胸にしまうと、忍人は今度はやさしく千尋の腕を掴むと引き寄せた。
先ほどのように追い詰めるのではなく、やさしく包み込むように抱きしめる。
彼女の首筋に顔をうずめると、先ほどは感じることができなかった甘い香りがして、思わず唇を寄せた。
苛立ちの末、たどり着いた先にあったものに酔いしれる。
苦味の後に口にする甘みは、蕩けてしまいそうなほどで。
その甘みに溺れてしまうのもいいと、忍人は思い始めていた。
そう感じているのは、千尋も同じなのだろう。
華奢な腕が、忍人の背に回される。
忍人はさらなる甘みを求めて、もう一度彼女の唇を求めた。



忍人との最初の頃のイベントで、堅庭で一人歩きを注意されるものがありましたよね。そこから浮かんだ妄想です。
甘さが欲しくて自家発電。忍人は、なかなか素直に甘くなってくれません。