眠る彼に

「陛下、狭井君がお呼びです」
「……え?」

一日の執務を終え、茜色の光が差し込む部屋に戻って一息つく暇も与えずに呼び出しだ。
狭井君とは先ほど別れ、自室に帰ってきたばかりだというのに、なぜ?
思わず頓狂な声を上げてしまい、千尋は慌てて居住まいを正した。
今、千尋の隣には、葛城将軍こと、忍人がいる。
この生真面目な恋人に、日ごろから”王らしく”としつこいくらいに言われている。

「何かあったのですか?」
「明日の朝議にかける議題について、訂正したいことがあるとのことでして、ご足労をおかけして申し訳ないです」
「分かりました。すぐに向かいます」

すぐに返事をしたものの、千尋は忍人に目をやった。

「行ってくるといい」

千尋の思っていることを察したのか、忍人はすぐにそう言った。

「あの狭井君が呼び出すんだ。火急な用なのだろう」
「ごめんなさい。私から誘っておいて……。せっかく久しぶりに会えたのに」

俯いて謝りながら、千尋の気持ちは下降の一途をたどっていた。
兵舎に戻ろうとする忍人を呼び止め、久しぶりに夕餉を一緒にと誘ったのは、千尋の方だった。
やっと作ることのできた、恋人との時間に心が弾んでいた。
それなのに、部屋に着いた途端の呼び出し。
ゆっくりと言葉を交わすことも、まだできていない。
落ち込むなという方が、無理な話だ。

「……君が良ければだが、待っていよう」

千尋の落ち込み具合を見て、忍人はそう言った。
その言葉に、千尋はおずおずと顔を上げる。

「待ってて……くれるんですか?」

いつ終わるのか、分からないのだ。
無駄を嫌う忍人は、きっと帰るだろうと思っていたのに……。
願ってもない申し出で、とても嬉しいのだが……。
しかし、千尋のそんな心の内はすでに察しているようだ。

「まだ夕餉には少し早い。それに、書庫から借りてきたこれがある。君が戻ってくるまで間に、読んでいよう」

忍人はそう言って、先ほどから持ち歩いており、とりあえず今は文机の上に置いてあった竹簡に目をやった。

「でも……」

素直に”はい”と言えず、千尋は目を伏せた。

「……俺が、待っていたいんだ」

静かな声でそう言われ、千尋は伏せていた目をゆっくりと上げた。
やさしい眼差しにぶつかる。
その眼差しに、千尋の迷いは吹っ切れた。
とにかく今は、用を済ませて帰ってこよう。
忍人との時間を作るためにも。

「嬉しいです。じゃあ、急いで行ってきますね」
「急がなくてもいい。気にせず行ってくるんだ」
「はい!」

笑顔でそう言い終えるや否や、千尋は室から駆け出していった。

「陛下。走ると危のうございます!」

呼びに来た文官が慌てて制する声が室内まで聞こえてきて、忍人は苦笑した。
急がなくてもいいと言った傍でこれだ。
”陛下”と呼ばれるようになっても、まだまだ17の少女だ。
忍人を待たせまいとする、彼女なりの気遣いだろうが……。
戻ってきたら少し注意しなくてはならないなと考えながら、忍人は竹簡を手に取った。




「結局、すごく待たせちゃったな……」

予想したよりも時間がかかってしまい、千尋は慌てて自室へと戻った。
日はもうすっかり暮れている。
部屋の格子戸から、燭台からの微かな明かりが漏れてきている。
すぐに夕餉をお持ちしますと言った采女に笑顔で答えると、千尋は中を伺うようにそろそろと扉を開けた。
椅子に腰掛けている忍人の後姿が見え、笑みがこぼれる。

「ごめんなさい。待たせてしまって……」

そう言いながら、室の中へ入ったものの忍人から反応がない。

「忍人さん?」

ひょっとして、怒っているのだろうか?
ひやひやしながら近づいていったが、すぐにそうではないことが分かった。
文机の上には、開かれたままの竹簡。
そして、忍人は腕を組んで俯いている。
微動だにしない。
そうっとその顔を覗き込むと、浅い規則的な呼吸が聞こえた。
それが分かると、千尋はほっと息をつく。
待ちくたびれたのか、忍人は眠ってしまったようだ。
以前、天鳥船でもこんなことがあったなと思い出し、千尋は思わず微笑んだ。
あのときの忍人は、眉間に皺を寄せて眠っていた。
しかし、今の寝顔には、眉間の皺はない。
忍人に訪れているのは、穏やかな眠りなのだろう。
千尋は、しばらく忍人の寝顔を見つめていた。
鋭い光を放つけれど、千尋の前ではとても柔らかくなる青緑色の瞳が、今は閉じられている。
そして、瞳を縁取る睫毛が意外と長いことが分かった。

「忍人さん……」

ささやきながら、千尋は手を伸ばして、忍人の睫毛にそうっと触れた。
起きない……。
睫毛に触れるのは止めて、今度は彼の頬に触れた。
男の人らしい、シャープなラインだ。
まだ起きない……。
今日の忍人は、隙だらけだ。
だが、ここまでされて、”あの”葛城将軍が隙だらけな上に起きないことを、千尋はおかしいと気づかなくてはいけなかった。
しかし、軽率にも気づけなかった千尋は、頬に触れたまま忍人の顔をじっと見つめた。
いつも厳しい葛城将軍の寝顔は、歳相応のものだ。
固く引き結ばれた唇。
千尋は、忍人の唇へと無意識のうちに唇を寄せた。
キスをしたいという衝動に駆られた。
だが、あと少しでというところで慌てて頬に触れていた手を離し、首をぶんぶんと振った。
自分のやろうとしていたことが恥ずかしくて、頬が上気してきた。
熱を冷まそうと、自分の頬を手で押さえる。

「な……何してるんだろう、私」

そう呟いたところで、手首をがしっと掴まれた。
忍人が、目覚めた。
千尋は、驚きのあまり声を上げることを忘れてしまった。
青緑色の瞳に、じっと見つめられる。
口をパクパクさせている千尋を、忍人は抱き寄せた。
そのまま力なく倒れる形で忍人の肩口に、顔を乗せることになった。

「……何を、していた?」

寝起きのためだろうか、尋ねる忍人の声は掠れていた。
しかし、それがどうしようもない艶を感じさせる。
千尋は、ふるりと身体を震わせた。

「な……何もしていません」
「そうか……」

忍人は、そう短く答えたものの、千尋を抱き寄せたままだ。

「あの……忍人さん?」

恋人にこうされることは、嫌ではない。
しかし、何だか気恥ずかしくて、千尋はそのままの姿勢でもじもじした。
すると、忍人がふっと笑う気配があった。
そして、紅く染まった千尋の耳朶に唇を寄せて囁いた。

「俺としては、してくれても構わなかったのだが……」

その言葉に、千尋は動揺した。
忍人には、千尋のしようとしていたことがばれていたのだ。

「……何をですか?」
「先ほど、君がしようとしたことだ」

そう言いながら、忍人は千尋の耳朶に口付けた。
それと同時にうなじを撫でられ、思わず声が漏れてしまいそうになって、千尋は息を詰めた。
いろんな意味で、限界だ。

「忍人さん、いじわるです……」

忍人の少し硬い指先が、くすぐるようにうなじを撫でる。
くすりと笑う吐息の熱さに、千尋は抱き寄せる忍人の胸元をくっと掴んだ。
厳しい葛城将軍は時おり、どうしようもなくいじわるになる。
だが、そんな彼の一面も好きなのだから仕方ない。

夕餉を持ってきた采女が扉の外で入れずにいることに、千尋は軽率にも気づけなかった。
しかし、そんな彼女を抱き締めて離さない忍人も、軽率であることに変わりはなかった。

ED後の将軍は、周囲を驚愕させるくらい千尋の前ではデレであればいいと思う。