甘い恋人

将軍という重い役職に若くして選ばれ、虎狼将軍と呼ばれ常世の軍に恐れられていた人。
責任感が強く、まっすぐすぎると言ってもよいくらいの彼の人柄を承知していた。
だから、戦いを終えて彼と恋仲になったものの、甘さを期待してはいなかった。

「忍人さん」

軍での鍛錬を終えて帰るところであろうか。
夕陽に照らされた、もうじき訪れる夜の色を思わせる濃紺の上着。
腰に携えられた金色の双剣。
背筋を伸ばして歩くその後姿を目にした千尋は、無意識のうちに呼び止めた。
いささか驚いた表情で振り返る忍人の姿を目にしながら、千尋は心の中でしまったと思った。
自分は今、地方からやってきた豪族との謁見を終え私室へと帰る途中であり、傍にはお付の采女も控えていた。
それにもかかわらず、大声で気安く声をかけてしまった。
後で、”王として立ち居振る舞い”についてお説教されるかなと頭の隅で考えながら、咳払いを一つして采女に言った。

「葛城将軍に用がありますので、外してもらっていいですか?」
「承知いたしました」

王らしく澄まして言ったところでもう手遅れであることは、くすくす笑いながら返事をする采女の表情で一目瞭然だ。
忍人と千尋が恋仲であることは、すでに彼女にはばれているのだ。
気恥ずかしさを感じながら、千尋は忍人のところへとゆっくりと歩み寄った。
本当ならば、駆け寄りたいところだけれども。

「陛下……」
「すみません。突然呼び止めてしまって……。少しだけいいですか?」
「ええ。今日の鍛錬を終え、今から詰所に戻ろうかと思っていたところですから」

そこまで言葉を交わしたところで、千尋はちらりとあたりを伺った。
近くには、誰もいない。

「忍人さん、いつもどおり話してください。忍人さんにそういう風に話されると、何だか落ち着かないです」

千尋の言葉に、忍人は仕方が無いなといった風情で微笑んだ。

「君は……。そろそろ慣れてもらわないと」
「そのとおりなんですけど……」
「……」
「……」

向かい合った二人の間に、しばしの沈黙が訪れる。
もともと忍人は口数の多い方ではないので、会話が弾むといったことはあまりない。
会話はなくとも、互いに居心地の悪さは感じない。
しかし、黙ったまま見つめ合うのはくすぐったさを感じる。
そう感じているのは、千尋だけではない様子だ。
忍人は、落ち着きなく口元に手をやっている。

「今日は、怒らないんですね」
「俺が?」
「はい。だってさっき、他に人がいるのに忍人さんって呼んでしまいました」
「ああ……」

千尋の言葉に、忍人は少し考えた様子だった。
しかし、神妙な顔をして尋ねてきた。

「君は、俺に怒られたいのか?言いたいことなら、たくさんあるが……」
「い……いえ!怒られる趣味はないです!でも……」

慌てて首を振る千尋に、忍人はくすりと笑った。

「いつものことながら、君らしいな……」
「え?」
「少し歩かないか?もうじき暗くなるからな……。部屋まで送ろう」
「あ……はい!」

他愛ない会話を交わしながら、部屋に戻るまでの時をともに過ごす。
手を繋いだり、甘い睦言を囁かれたりといった、特別なことは無い。
けれども、将軍として普段は厳しい顔を見せることの多い忍人の柔らかい表情を見られることが、千尋にとってなによりの特別だ。
それだけでも、満たされる。
しかし、特別な時間が過ぎるのはあっという間だ。
広い宮の中とはいえ、千尋の私室の前に着いてしまった。

「わざわざありがとうございました」
「ああ。今日も忙しかったんだろう。ゆっくり休むんだ」
「はい……」
「……」
「……」
「千尋……」
「はい?」
「これでは、帰れないんだが……」

忍人が困ったような様子で、目をやった先には……。
忍人の上着の袖を掴んで放さない、千尋の指先だ。
せっかく会えたというのに、もうお別れなのがさびしくて、無意識のうちに掴んでしまっていた。

「あ……ごめんなさい」

千尋は謝るものの、袖を掴んだ手を放すことができない。

「千尋……」

忍人は、それをどのように扱ったらいいのか困っている。
戦法や武術に長けた常勝将軍だが、さびしがる恋人にへの接し方は検討がつかない様子で。
ただ、名前を呼ぶことしかできない。

「もうお別れなんだと思ったらさびしくて……。困らせてしまっていますよね……」

無理に笑顔を作って千尋はそう言ったものの、袖をさらにぎゅっと掴んだ。
少しだけ震える指先。
甘えたことを言うなと、怒られてしまうだろうか……。

「千尋」

しかし千尋の予想とは違い、忍人は甘い声音で千尋の名を呼んだ。
困惑している時とは、明らかに違う響きで。
はっとして顔を上げると同時に、ふわりと抱き締められた。
忍人がこんなことをするだなんて、初めてのことで……。
今度は、千尋が困惑する番だった。

「忍人さん……。甘えてるなって怒らないんですか?」

忍人の腕の中、そっと彼の胸に頬を寄せながら尋ねる。

「今の君を、怒れると思うのか?それとも、そんなに俺に怒られたいのか?」

やさしい声。
千尋の髪を、ぎこちない様子で撫でる指。
抱き締める力が、少しだけ強まる。
こんなに甘やかされていいのだろうか。
そうは思うものの、厳しい彼が、甘やかしてくれた事実がとても嬉しい。

「怒られる趣味はないです……」

そう言いながら胸に寄せていた顔を上げると、髪を撫でていた手が頬に触れてきた。

「俺は、戦うことしか知らない男だ。どうすれば、君からさびしいという気持ちを取り除いてやれるのか、分からない」

眉間に寄った皺。
だが、怒っているのではなく、どうしたらいいのか本当に困り果てている様子が見て取れる。
伝わってくる忍人の不器用なやさしさに、千尋は笑みを浮かべた。

「充分です。忍人さんが、やさしい……」

呟きながらうっとりと目を閉じる。
すると、頬に触れていた手が、遠慮がちに千尋の唇をなぞる。
剣を扱うことにより、硬くなった指先。
次の瞬間、硬い指先とは違う、やわらかな感触が唇に触れた。
その感触に思わず目を開けると、忍人の顔がこれ以上ないほど近くにあった。
初めての口付け。
今日の忍人は、本当に甘い。
抱き締められて口付けられて……千尋は、とろけてしまいそうだ。
永遠とも思える時間の後、唇が離れる。
どちらからともなく、吐息がこぼれた。


「また明日」

照れくさいのか、頬を染めて早足で去っていく忍人の後姿を眺めながら、千尋は自分の唇に手をやった。
触れ合った感触が、まだはっきりと残っている。
恋とは不思議なもので。
忍人は、こんな甘さを持っているのだということを、初めて知らせてくれた。
甘さの余韻に揺られながら、千尋はその日眠りについた。

忍人の声を聞いていて思うのですが、中原さんって本当にやさしい声をしていますよね!