嫌だった訳じゃないの……。

軽率な君


ふわりとやさしい風が吹くだけなのに、桜の花ははらはらと散っていく。
散るときでも、桜の花は美しい。
その光景を眺めながら、千尋は目を細めた。

「桜の花が散る前に、観に来ることができてよかったです。本当に綺麗!」
「もっと盛りの頃に連れて来られればよかったな」
「そんなこと、どうでもいいんです。こうして、忍人さんと来ることができたのだから」
「俺と来て喜ぶだなんて、君は物好きだな」

苦笑しながら言う言葉とは裏腹に、いつもは厳しい忍人の表情がどことなく綻んでいる。
千尋の無邪気な喜びぶりを、微笑ましく感じているのだろう。
今日は、中つ国の王となってから慌しい日々を過ごしていた千尋にようやく与えられた休日。
長き戦いを終え、共に戦った忍人への想いが恋であったとようやく自覚した千尋は、休日をもらえると同時に、迷うことなく彼を花見に誘った。
真面目な忍人のことだから、王が個人的に花見に出かけることを厭うかもしれないと、駄目で元々な気持ちで声を掛けた。
しかし忍人は、予想に反して一緒に出かけることを快諾してくれた。
二人きりで出かけるのは初めてのことで、千尋が浮かれてしまうのも、無理もない話だった。

「忍人さん。あそこに咲いている花、何でしょう?」
「……?」
「あそこです」

二人連れ立って歩いていると、土手に咲く小さな白い花に目が留まった。
地味ではあるが、いじらしく花を咲かせている姿が気になり、千尋は指差した。
しかし、忍人にはどれのことだかうまく伝わらなかったようだ。
千尋は伝えたい一心で、花のところへと駆け出した。

「千尋。走ったら危ない」

今日の千尋の服装は、引き摺りそうなほど長い裾の豪華な衣装だ。
それは、王としての千尋のために特別に用意されたもので、天鳥船に乗り戦いの中に身を置いていた頃に身に着けていた活動的なものとは、まったく勝手の違うものだ。
しかし、千尋がそんなことを意識して動くはずもない。
忍人の制止を無視して走ったものの、案の定、花にたどり着く前に、裾を踏んでしまいよろめいた。

「いたっ……」

そして、ぽすっと軽い音を立てて、千尋は地面に転んだ。
不幸中の幸いと言うべきか、草がたくさん生えているところだったので怪我はなくすんだ。
そんな千尋の姿を見て、忍人が呆れて溜息をついているのが、転がっていても分かった。

「だから、危ないと言ったんだ。怪我は無いか?」

転がったままおずおずと顔を上げると、忍人が仕方が無いなと言ったような表情を浮かべて、右手を差し伸べていた。
手を差し伸べるなど、以前の彼ならば、考えられない行動だ。
忍人も随分甘くなったものだと思いながらも、千尋は差し出された手を取ろうとした。
しかし、自分に向けられた甘さが特別なもののように感じられて、些細なことなのに心が躍る。
そこで、ちょっとしたいたずら心が湧いてきた。

「ありがとうございます」
「……!!?」

千尋はお礼を述べながら忍人の手をぎゅっと握ると、思い切り引っ張った。
自分と同じように、忍人も転がしてしまおうと思ったのだ。
しかし、鍛え上げられた忍人をそうすることは、そうそう容易なことではなかった。
わずかによろめいて、片膝を地面についただけに留まる。

「千尋……」
「あれ?失敗しちゃいました……ね……」
「何が失敗なんだ……。まったく君は……」
「あはは……」

厳しい表情を浮かべる忍人を何とかごまかそうと、千尋は笑った。
しかし、彼がごまかされる訳もなく……。

「あの……少し調子に乗りすぎました。ごめんなさい……」

千尋は、ごまかしても仕方がないと観念した。
転んだままの姿勢だったので、起き上がると草の上にちょこんと腰掛ける。
そして、握ったままになっていた手を、さらにきゅっと握りしめ、素直に謝った。
しかし、忍人は、厳しい表情を崩さない。

「先ほどの言葉といい……。王としてのたしなみなど、今更俺が語るまでもないと思うが……。君のそういった無邪気さを可愛らしいとも感じる。しかし、それではあまりにも……」
「あまりにも?」

首を傾げる千尋を、忍人はじっと見つめた。

「君には、言葉で言っても分からないだろう。こういうことだ」

すると、忍人の空いている左手が、千尋の頬にかけられる。
そのまま、強引にぐいと引き寄せられた。

「……忍人さ……」

千尋が言葉を継ぐ前に、唇が塞がれた。
口づけられたと自覚したのは、忍人の顔が離れていく時に、彼の睫の長さが分かったから。
呆然としている千尋に、忍人は言った。

「無邪気に戯れるのもほどほどにしないと、こういったことになる」
「……」

口づけておいて、忍人から与えられる言葉は、甘さの欠片も感じさせないもので。
一瞬の出来事だったので、何が起こったのか、千尋には事態を把握しかねた。
何よりも、千尋にとっては生まれて初めての口づけであったから、戸惑いも大きい。

「男は、勘違いしやすい生き物だ。君のような軽率な言動は、己の身を滅ぼす。あまり心配をさせるな」

黙ったままの千尋に畳み掛けるように、忍人は続けた。
その言葉を聞いて、忍人は何か勘違いをしているらしいと、千尋は察した。

「確かに、さっきの行動は軽率だったかもしれないです。でも、勘違いをさせたつもりはありません……」
「まだ君は、そんなことを……」

やっとのことで返した精一杯の答えに、忍人は大きく溜息をついた。

「それが、軽率だと言うんだ」

そう言うと、頬に触れていた忍人の手が後頭部へと回された。
握っているだけだった右手の指と指が、きつく絡められる。
今度は先ほどよりも確かな感触で、唇が重ねられた。
千尋は、目を閉じることも忘れて、その行為を受ける。

「……ん!?」

先ほどの口づけとは違う感触が襲ってきて、思わずうめき声を上げてしまった。
引き結んだままの千尋の唇に、するりと柔らかくあたたかいものが触れる。
くすぐるように這うその感触。
それが、忍人の舌であると理解するのに、時間はかからなかった。
口づけすら先ほどが初めてで、経験の全くない千尋には、あまりに唐突過ぎる行為だ。
開かれたままの目をさらに見開き、これ以上ないほど近くにある忍人を見つめてその戸惑いを訴えかける。
しかし、忍人の目は閉じられたままだから、千尋の訴えは届かない。
逃げを打つ華奢な千尋の体を、忍人はそうはさせじと絡ませた指をますますきつく絡め取り、後頭部に回された手でさらに自分の方へと引き寄せる。
さらに、息が苦しくなり酸素を求めて緩んだ千尋の唇の隙を突いて、侵入してくる。
乱暴とも言える口づけなのに、怯えて逃げる小さな舌を探る動きは意外なほど優しい。
与えられるくすぐったい感触が体の芯まで浸透して、全身が熱くなってくる。
繋いだ唇の間からこぼれる濡れた音と忍人の熱い吐息を感じて、じわじわと体が疼く。
頭が真っ白になってくるのに、なんだか気持ちよくて……。
こんな感覚を、千尋はこれまで知らない。
自分が自分で無くなってしまいそうで……。
千尋には、そのまま受け入れるにはあまりに刺激的すぎる感覚だ。
無意識の内に、声が漏れた。

「……んん……っや………」

その声を聞いた瞬間、忍人の唇が離れていき、絡められていた指も離された。
そして、ふいと目が逸らされる。

「これで分かっただろう……」
「忍人さん……どうして……」

今の行為の意味を知りたくて千尋は、忍人をじっと見つめる。
けれども、忍人は目を合わせようともしない。

「王としての自覚を欠いて軽率な言動をとると、こんな風に君が望んでもいないことが起こる。そのことを、教えたかった」
「……!!!」

忍人の言葉を、頭の中で反芻する。
ショックで、千尋は次の言葉が出てこなかった。
千尋に王としての自覚を促すために、忍人は今の口づけをしたと言うのか。
気持ちなんて、二の次で……。
じわりと涙が滲んできた。
それでも、相変わらず忍人は、千尋の方を見ようともしない。

「忍人さんなんて……嫌いです……」

ぽつりと呟くと、立ち上がる。
そして、裾が絡まるのも気にせず、橿原宮に向けて駆け出した。
しかし、そんな千尋を、忍人は制止することも、追いかけてくることもしなかった。
その事実が、ますますショックだった。
忍人にとって、千尋のことなどどうでもいいことなのだ。
彼の望むとおり、王としての自覚さえ持ってくれれば。
ひらひらと散る桜の中、千尋はひたすら走っていく。
忍人と過ごせることに喜びを感じて浮かれていた心は、すっかり萎れてしまっていた。




千尋は宮に帰ると、すぐに自室に閉じこもってしまった。
食事もろくに喉を通らず、残してしまった。
心配した采女が薬湯を持って様子を伺いに来たが、疲れたから休ませて欲しいと言って帰した。
理由などいえるはずが無い。
けれども、個人的なことで周囲に心配を掛けてしまう自分に、自己嫌悪が募る。

「……」

床にうつ伏せたまま、千尋は今日の出来事を思い出していた。
外はもうすっかり暗くなっていて、窓から差し込む月明かりが部屋の中を頼りなく照らしている。
そっと唇に触れてみた。
昼間、忍人の唇がここに触れていた……。
初めての口づけだった。
しかも、想いを寄せている人から与えられた願ってもない……。
本当ならば、甘い幸福感に浸れるはずの出来事なのに……。
感じるのは、苦さだけだ。
自分の何がいけなかったのだろう……。
千尋は、忍人の隣にただいたいと望んでいた。
王ではなく、葦原千尋として。
だから、一緒に花見に来られて嬉しいと伝えたし、差し伸べられた手も迷うことなく取った。
しかし、彼が望んでいたのは、中つ国の王としての千尋で……。
それを伝えるために彼が取った行動は、恋をしている千尋にとってあまりに酷なことだった。
考えれば考えるほど互いの想いの違いを実感して、ますます悲しくなってくる。

――カタッ……

部屋の外で、物音がした。
こんな夜更けに誰だろうと思った。
采女が、また様子を見に来たのだろうか。
扉をそっと開けてみる。
しかし、そこには誰もいなかった。
気のせいかと思い、扉を閉めかけたところでふと気がついた。
床に、花が置かれていた。
白い花が一輪……。
拾い上げると、見覚えのある花にはっとした。
昼間、忍人と出かけた際に見つけた花だ。
千尋は、部屋を飛び出した。
まだ、そう遠くへは行っていないはずだ。

「忍人さん!」
「……千尋………」

忍人には、回廊の曲がり角のところで追いついた。
呼び止めると立ち止まり、千尋の方を向いてくれた。

「あの……」

追いかけてきたものの、千尋は何を言ったらいいのか分からなかった。
千尋が乱れた息を整えるのを、忍人は黙って見ていた。

「あの……この花………」
「ああ……」

かける言葉が見つからないのは、忍人も同じようで気まずい雰囲気が二人の間に流れた。
しばらく沈黙が続いたが、沈黙を破ったのは意外にも忍人の方だった。

「すまなかった……」
「え?」
「昼間……」
「……」

謝られたものの、どう答えたらいいのかと俯いた千尋を見つめ、忍人は続けた。

「軽率なのは、俺の方だった。君の無邪気さにつけ込んだのだから」
「……忍人さんが?」

忍人の言葉に、千尋ははっと顔を上げる。

「君の無邪気さにつけ込んだら、歯止めがきかなくなった。謝ったところで、許してもらえるとは思っていないが……」
「つけ込む……?」

千尋に見つめられて、忍人は口ごもった。
そして、しばらく逡巡した後で、こう告げる。

「王の自覚などと偉そうなことを言いながら、それを口実にして、君に触れたいという欲望を抑えられなかった」
「それって……」
「君が嫌がっているのに、己の欲望をぶつけてしまった。嫌われて当然だ」
「……」

つまり忍人は、千尋に触れたいと思って昼間口づけたと言うのか。
にわかに信じがたい事実に、千尋は呆然とする。
忍人は、困ったように自分の口元に手を当てると続けた。

「許せとは言わない。ただし、君の嫌がることは今後一切しない。それだけは誓おう。俺が今言えることは、それだけだ」
「……じゃないの………」
「……?」

千尋はぽつりと呟くと、また俯いてしまった。
聞き取れなくて、忍人は目を細めて首を傾げた。

「千尋?」
「嫌だった訳じゃないの……」

すると今度は、忍人に聞こえるように呟いた。

「忍人さんのこと、好きだから……。嫌じゃなかった……」
「しかしあの時、君は確かに嫌だと……」
「だって……」

千尋は、頬が火照ってくるのを感じた。
自分から、素直な気持ちを伝えることは恥ずかしい。
でも、ここで素直な気持ちを伝えなければ、きっと忍人との関係は修復不能なものになってしまう。
必死の思いで、言葉を繋ぐ。

「だって私、初めてだったんですよ?だからあんな風に口づけられて、どうしたらいいのか訳が分からなくなって……。あんな言葉しか出てこなくて……」
「……」
「でも私、忍人さんのこと……好きです」

忍人を真っ直ぐに見つめて、はっきりと気持ちを告げた。
今度は、忍人が呆然とする番だった。

「好きです……。あなたには、王としてあるまじきことだって叱られてしまうかもしれないけど……。忍人さんが、好きです……」

千尋は、繰り返し好きだと伝える。
すると、呆然と千尋の言葉を聞いていた忍人が、おずおずと手を伸ばしてきた。
そして、壊れ物を扱うかのように優しく、そっと千尋を抱き寄せた。

「俺は、都合のいい夢を見ているのか……?それとも、勘違いしているのか……?」
「何度でも言います。夢じゃないし、勘違いでもありません。私、葦原千尋は、忍人さんのことが好きです……」

忍人の胸の頬を寄せると、千尋はもう一度言った。
抱き寄せるために背中に回されていた手が、恐々と千尋の頬に触れる。
そして、忍人は少し距離を取って、そのまま顔を覗き込む。
至近距離で見つめられて恥ずかしかったけど、千尋は目を逸らさずに忍人を見つめる。

「俺も、君のことが好きだ……」

千尋の表情を見て、忍人の迷いは吹っ切れたようだ。
そう囁くと同時に、忍人の顔がゆっくりと千尋に近づいてくる。

――また口づけられる……。

それを感じると同時に、千尋は目を閉じた。
昼間の乱暴なものとは違い、やさしい口づけが千尋の唇に訪れる。
幸福感に満たされ、離れて行くときに、千尋の唇から無意識のうちに熱い吐息が零れた。
幸福感に酔いしれる千尋のうっとりとした表情を、忍人は堪らない思いで見つめ、もう一度唇を重ねた。
もう一度だけでは足りない。
何度も何度も唇を重ねる。
最後には、千尋の息が切れてしまうくらい何度も。

「忍人さん……」

苦しそうに喘ぎながら、千尋は忍人の胸にこつんと額を当てる。

「さっきも言いましたが、私……こういうことするの、初めてだから……。急にいろいろ起こると、訳が分からなくなっちゃいます……」

その言葉に、忍人はまた暴走しかけていた己を自覚して苦笑した。

「ああ。君が戸惑わないよう、努力しよう……。時間は、たくさんあるのだから」
「はい」

千尋は嬉しそうに返事をすると、忍人の背中にぎゅっと腕を回し抱きついた。
それを受け止めながら、忍人は、先ほどの言葉に心の中で”できる限り”と付け足した。
背に回された千尋の手の中で、忍人の想いのこめられた白い花が、恥ずかしそうに揺れていた。
恋人としての二人の時間は、まだ始まったばかりだ。

忍人に甘さが欲しくて自家発電。でも、自家発電だけじゃ、お腹が空く……。
忍人は、恋愛レベルは限りなくゼロに近い気がします。今回の忍人さんは堪え性が無くて、いろんな意味で軽率です。しかし、一番軽率なのは、こんな話を書いている私かもしれません。