病の床にあったとしても、一日一度、剣を手にすることは欠かさない。
生太刀と呼ばれる双剣を陽にかかげると、やさしく穏やかな輝きがいっそう増す。
愛する少女がまとうものと似た、その光。
しかし、弱りきった忍人の腕で持ち続けるには、その双剣はあまりに重かった。

――自分はもう、彼女を守ることができない。

その事実は暗く重い澱みとなって、忍人の心を押しつぶす。

命、燃やして

目覚めと同時に感じる違和感に、忍人は眉を顰めた。
掛け布の上に感じる僅かな重みを、首だけ動かして確かめれば、そこにいたのは案の定と言うべきか、金色の髪を持つ次期中つ国の王、千尋だった。
忍人の寝台の脇に腰掛けて、そのまま掛け布に突っ伏して眠りについている。
寝息の立て具合から察するに、結構な時間こうしているであろうことが容易に分かった。

男の寝所に入り込み、うたた寝をする迂闊さを叱っておくべきだろうかとも思ったが、別の事実に思いが至り、横たわったままため息をついた。

自分は、千尋が部屋の中に入ってきたことも、そして脇に腰掛けて眠りについていたことも、この瞬間までまったく気づいていなかった。

常世の国との戦を終えた後、忍人はこうして床に臥せっていることが増えた。
時々咳き込み、全身に力が入らなくなる。
軍のことは布都彦や道臣に任せ、養生する日々。
これまで、破魂刀の力に頼ってきた代償と言えば仕方ないのかもしれない。
しかし、虎狼将軍と呼ばれ、戦場を駆け回っていた頃の自分なら、彼女の気配に気づかないなんてことはなかった。
それだけ、今の忍人の身体は衰えてしまっているということだ。
眠り続ける少女の姿を、じっと見つめながら呟いた。

「せめて、君が王になるまでは……」

あとどれだけ自分に命が残されているのかは、分からない。
しかし、せめて傍らで安らかな寝息を立てているこの少女が、王として立つ所を見届けたい。
師匠である岩長姫あたりに、忍人がそう考えていることを知れたら、何を弱気なと厳しく叱責を受けるだろう。
だが、ここ最近の衰え具合は、自身の命の終わりを、否応無く忍人に考えさせていた。

気持ち良さそうに寝ている彼女を起こすことを躊躇して、忍人はしばらくそのまま横たわっていた。
連日の激務で疲れているのだろう。
彼女が起きる気配は、まったくない。
しばらく休ませてやるのも、いいかもしれない。
忍人はそう決めると、またゆるりと目を閉じた。
彼女の立てる、寝息の音に自分の呼吸を重ねる。
不思議なことに、とても心地よい。
千尋の呼吸に合わせているうちに、忍人も再び眠りについていた。



格子戸から入り込んでくる西日に顔を照らされ、忍人ははっと目を覚ました。
また、結構な時間寝てしまっていたようだ。
しかし、傍らで規則正しく聞こえる寝息は、相変わらず……。
忍人は、すでに二度も目を覚ましているというのに、対する彼女は一度も目覚めた形跡がない。
余程疲れているのであろうが、日も暮れようとしている刻限に、こうして男である忍人の部屋で休ませておくのも問題があるだろう。
そう、彼女にとっては……。
忍人は、横たわったまま千尋の肩に手を伸ばすと、そっと揺さぶった。

「千尋、千尋……」
「ん……」

ごく小さな声で呼びかけたのだが、千尋は目覚め、むずがるように首を振りながら顔を上げた。
眠りにより閉じられていた瞳が、ゆっくりと開いていく。
蒼目が、忍人の姿を捉える様がつぶさに見えた。

千尋の瞳は、海を思わせる蒼い色をしている。
生命の源とも言われる、海。
彼女の瞳は、生命力に満ち溢れている。
忍人にとっての千尋は、生きることそのものだ。

「忍人さ……。私、いつの間にか眠っちゃって……。あ!ごめんなさい」

寝台にもたれかかっていたことに気がつくと、千尋は慌てて身体を起こした。
千尋が離れると同時に、忍人も身体を起こした。

「君が、あまりに気持ち良さそうに眠っていたから起こせなかった」
「あ……そうだったんですか。気を遣わせちゃってすみません」

少し乱れた髪を手櫛で整えながら、千尋は申し訳なさそうに俯いた。

「今日は、お仕事が早く終わって……。最近、忍人さんに会っていなかったから、お見舞いに行こうって思ったんです。でも、いざ来てみたら忍人さんが気持ち良さそうに眠っていて、起こせなくて……」
「それで、待っているうちに自分が眠ってしまいました……といったところか?」

千尋が言わんとすることを読み取ったように言った忍人の言葉に、千尋は肩をぴくりと動かし、おずおずと顔を上げる。

「どうして分かったんですか?」
「説明しなくても、何となく予想はつく」
「あはは、そうですよね」
「君も、一緒だったんだな」
「……え?」
「互いの眠っている姿を見て、起こせなかった。俺も、君もだ」
「はい」

忍人の言葉にそう返事をして、千尋はとても嬉しそうに笑った。
西陽に照らされた金色の髪が、やさしく穏やかに輝いている。
忍人は、それを眩い思いで見つめた。

「しかし、王になる君が男の部屋に長居するのは、感心できない。これからは、気をつけたほうがいい」
「そう……なんですか?お見舞いに来ただけなのに」

微笑んだまま忍人の言葉に首を傾げる千尋の無邪気さに、思わずため息を吐いてしまう。

「君には……婚姻の話がもう出始めているだろう?すでに、力のある族……毛野や高志あたりから申し出があったはず」
「忍人さん、どうして知って……」

忍人の言葉に、千尋の微笑がすっと引いた。
笑顔が引くと同時に、口の端が微かに震える。

「養生のため、日がな一日寝ている生活だからな……。噂好きな采女たちの声が、望まなくとも耳に入ってくる」
「そうですか……。もう、知っていたんですね。私は結婚なんて、まだ早いと思うんですけど」

そう、彼女にはすでに縁談が何件か来ている。
忍人が知っていた事実に驚きつつも、取り繕うようにまた微笑を浮かべる千尋。
しかし、無理に笑っていることは明らかだった。

「早いことは無いだろう。強力な族と婚姻関係を結ぶことは、今後の国の安定の為には必要なことだ。良い伴侶を得ることも、王としての役目だ。だから、俺との間に下手な噂が立って、君の縁談に支障が出たらいけない」

そう言いながらも、忍人の胸は痛んだ。
自分は、正しいことを述べている自信が忍人にはある。
それなのに、胸が妙に痛む。
なぜなら、忍人は……。
だが、個人的な感情は捨てて彼女を諭すことが今の自分の役目だと感じている。

忍人の言葉を聞いた千尋は、もう笑いで取り繕うことができないようだった。
唇を噛み締めると、俯いてしまった。
その姿を見て、忍人の自信は揺らいだ。
これでいい。
これでいいはずなのに……。
病を得て、余命いくばくもない自分と噂が立ってしまえば、千尋の王としての名に傷が付くことになる。
これからの彼女の幸せを想うのならば、これが最良の答えのはず……。
だから、彼女が納得するようにきちんとしてやるのが、今の忍人にできることだ。
しかし、忍人の口から、次の言葉が出てこない。
俯いている千尋を前にして、どうすることもできない。

「噂になればいい……」

すると、俯いたままの千尋がぽつりと呟いた。
彼女がとんでもないことを言い出したのに気がついて、忍人ははっとした。

「噂になればいいんです。新王は、葛城将軍のものだって」
「千尋……」

千尋は俯いていた顔を上げると、忍人を真っ直ぐに見つめてきた。
彼女の蒼瞳は、僅かながら涙が滲んで、潤んでいる。
けれども、否と言わせぬ強い意志が、その瞳には宿っている。
無茶なことを言い出す千尋を、たしなめなければならない。
それが、忍人の役目。
それなのに、やはり言葉が出てこない。

「いくら力の強い族の人とは言っても、結婚はしたくないです。だって、私が好きなのは……」
「二ノ姫。それ以上、言うな」
「……」

ようやく、忍人が言葉を放つ。
いつになく強い口調で二ノ姫と呼ばれたことに驚いたのか、千尋は言葉を失った。
千尋の気持ちは、鈍い忍人でもさすがに薄々と感じ取ってはいた。
彼女から己に向けられる、甘くとろけるような視線。
それに気づいたのは、忍人も同じ想いを抱えていたからだ。
しかし忍人は、その想いに答えられる状況ではなかったし、自分の想いを伝えられる状況でもなかった。
それでも忍人自身、彼女を突き放すこともできずに甘んじていた。
千尋が傍にいてくれることはあまりに心地よかったし、忍人も、少しでも長く彼女の傍にいたいと思っていた。
だが、それももう潮時のようだ。
ひとつの覚悟を胸に、忍人は言葉を継ぐ。

「俺が……いや、俺たちが、中つ国の復興をどれだけ待ち望んで来たのか、知っているか?」
「それは……」
「5年間、俺たちはこの日を待ち望んできた。いっときの感情で、人々の想いを無駄にしないでくれ」
「私の想いは、いっときの感情なんかじゃありません!忍人さんのことが、好きです。出会った頃は怒られてばかりで、怖かったけど……。でも、忍人さんが私を認めてくれて、傍にいてくれたから、これまで頑張ってこれたんです。だから、これからも傍にいて欲しいし、傍にいたい……。その気持ちに、偽りはありません」
「……」
「結婚の話が出たとき、毛野、高志だけでなく、葛城の名も挙がっていました。葛城も、身分的に申し分ないと……。だから、新王の相手が忍人さんでも、問題ないんですよね?」
「……」
「……迷惑ですか?私の気持ち」

不安げに揺れる千尋の瞳。
彼女からの真っ直ぐな迷いの無い告白に、忍人の心は歓喜に震えた。
……迷惑な訳がない。
忍人は、無意識のうちに、千尋の肩に手を伸ばしていた。
しかし、彼女の肩に触れる前、目に入ってきた自分の手の細さにはっと我に返る。
もう、かつてのように剣を握ることも、振るうこともできない己の非力さ。
それを、思い出した。
ぐっと拳を握ると、絞り出すように言った。

「迷惑……だな……」
「……」
「君のことは、王として認めている。しかし、それと結婚は別の話だ」
「……分かりました。無理なことを言って、ごめんなさい」

忍人の答えを聞くと、千尋は淡く微笑んだ。
そして、目を伏せると立ち上がった。

「ふふ、私、振られちゃいましたね。迷惑掛けていたのに気づかなくて、ごめんなさい。私、忍人さんに甘えていました」

千尋の言葉に、忍人の胸が痛む。
甘えていた?
むしろ、甘えていたのは、忍人の方ではないのか?
先ほどだって、寝ている彼女を起こすこともせず、傍にいることを許した。
傍にいることを許容しておいて、それなのにこうして今は突き放して……。
矛盾だらけだ。
忍人の答えが無いのを答えと感じたのか、千尋の唇がわななくように震えた。

「ここに来るのはやめますね。もう、来ません……。忍人さんの迷惑になるだけだから」

そして、忍人にくるりと背を向ける。
背を向ける瞬間、千尋の瞳から涙が一筋零れるのが、目に入った。
その涙にはっとしたが、忍人が何かを言う前に、千尋は小走りで部屋を出て行った。
扉の閉まる渇いた音が、響き渡る。
彼女の涙を拭う権利など、自分にはない。
そのことに思い至り、忍人は額に手を当てた。
忍人にとって千尋は、生きることそのもの。
太陽のような存在。
彼女のいなくなった部屋が、急に暗く、寒くなった気がした。
忍人の身体が、急速に冷えていく。

これで、良かった。
彼女のこれからを思えば、これで……。
しかし、この感情は何だろう。

――もう、来ません……。

千尋は、決して偽りを述べたりはしないから、これでもう二度と来ることはないだろう。
そうして、彼女が気づかぬうちに、そして何より彼女を傷つけぬように、自分は密かに生涯を終えられれば良い。
それで良いはずなのに、なぜそれを嫌だと感じるのだろう。
それを、さびしく感じるのだろう。

「くそっ……」

きつく握った拳で壁を叩きつけると、寝台から立ち上がった。
そして、部屋の外へと出る。
外の空気を吸えば、少しはこのもやもやとした気持ちが晴れるかと思った。

「……」

扉を開けるとすぐ傍に、小さな影があった。
しゃがみ込んでいる千尋であることに、すぐに気がついた。
もう来ないと言いながらも、それでも去りがたくてここにいたということか。
忍人の気配に、千尋ははっとした様子で立ち上がる。

「ごめんなさい、こんなところで……。帰りますね」

袖でごしごしと目を擦ると、千尋は微笑む。
泣いていたのは明らかなのに、笑ういじらしい彼女の姿に、忍人は無意識のうちに動いていた。

「待ってくれ」

去ろうとする千尋の手を、ぐっと掴んだ。
こうして彼女の手に触れるのは、初めてのこと。
触れた手が、温かい。
冷えていた身体に、しみこんでいくような温かさだ。
己の立場だとか、彼女の幸せだとか、忍人を戒めていた枷が、その温もりの前ではすべて無駄なもののように感じられた。

「忍人さん……」
「……」

何でも無いと言ってこの手を離せば、それで終わることができる。
先に逝く可能性の高い自分に、彼女への愛を語る資格などあるのだろうか。

――噂になればいいんです。

そう言い放った時の、千尋の強い瞳を思い出した。

――忍人さんのことが、好きです。

自分の気持ちを、真っ直ぐに伝えてきた彼女。
それに引き換え、忍人は……。
己の不甲斐なさに、唇を噛み締めた。

「すまない、千尋……」
「どうして、忍人さんが謝るんですか?迷惑を掛けていたのは、私の方です」
「すまない」

掠れた声で謝罪を繰り返すと、戸惑いを見せる千尋の身体を引き寄せ、抱き締めた。
忍人の腕の中に、千尋の身体はあっさりと納まる。
初めて触れたその身体の小ささと、男とは違う柔らかさに内心驚くと同時に、愛しさが込み上げてくる。
抱き締めながら、彼女の金色の髪に唇を押し当てる。
鼻腔をくすぐる甘い匂いに、眩暈を覚えた。
そうしながら、忍人は改めて実感していた。

自分は、彼女を……千尋を、愛している。

抑えつけよう抗っても、すでに手遅れなところにこの想いは来ていたのだ。
一度触れてしまえば、留まることを知らない。

「……すまない」

忍人は、千尋を抱き締める力を、さらに強めた。
この”すまない”には、様々な謝罪の意味が込められている。

先ほど、突き放したことだけではない。
これまで、命を削り戦い続けてきたこと。
己の王と定めた彼女を守りたくて、最後まで剣を置くことができなかったこと。
その結果、忍人に残された時間はそう長くなく、それが分かっていてなお、この想いを捨てられないこと。

それらの、なんと罪深いことか。

「忍人さん、そんなに謝らないでください」
「そうだな。すまない……」
「また謝りましたね?私、今すごく幸せですから、謝らなくていいんです」

忍人の背に、千尋の腕が遠慮がちに回された。
衰えてしまった忍人の胸にも、すっぽりと納まってしまう小さな身体。
こんな小さな身体で、彼女はこれまで中つ国の名を背負って戦い、そして、これからは王として背負っていかねばならない。
それを忍人は、どこまで支えてやれるのかは分からない。
それでも……。

「千尋、どうかこの命尽きるまで、君の傍にいさせてくれ」

愛しい愛しい忍人の王。
自分が傍にいて、守ることができるのか?
いや、この少女に仇なす者があれば、残された命を燃やし尽くしてでも守ってみせる。
守らなければならない。
そう心の中で決心する。

「私も、忍人さんの傍にいたいです」

忍人の胸から顔を上げると、千尋は潤んだ瞳でじっと見つめてきた。
海を思わせる蒼目に、忍人の顔が映る。
この澄んだ瞳を守るためならば自分は……。
忍人は、千尋の瞼にそっと唇を寄せた。
千尋の瞳がそっと閉じられ、その瞼に、やさしく忍人の唇が触れる。

それは誓いと同時に、まるで、許しを乞うかのような口付けだった。

遙か4愛蔵版発売記念で、久しぶりに忍千です!出来るだけ甘くしようとあがいてみましたが、オクテな忍人にはこれが限界でした。
忍人ルートでお話を書くと、忍人の死が前提となるのでやはり切ないものになってしまいます。それでも、忍人ルートの忍人が本物だなと思うのです。