大人しく、負けを認めよう。
Loser
幾多もの運命で、望美は知盛と戦ってきた。
初めて戦ったときは、無残なほどに叩きのめされた。
その後、望美は彼と剣を交えても、引けをとらないほどの腕を身につけた。
そんな望美に知盛は関心を抱いたし、同じように望美も知盛に関心を抱いた。
……関心を抱いたのは、望美の方が先だったのかもしれない。
どの運命を選んでも、必ず海中へと消えていってしまう知盛。
彼を助けたいと思った時から、望美は彼に捕らえられていた。
しかしそれも、今となってはどうでもいいことだ。
こうして今、知盛は時空を越え、望美とともに現代へとやって来ているのだから。
赤い夕陽が、アパートの鉄錆びた階段を照らす。
手にした学生鞄を落とさぬよう持ち直すと、望美はその階段を踏みしめるようにして上った。
望美の足取りとは裏腹に、階段はトントンと軽い音を立てた。
「2階の一番端っこって言ってたよね……」
ぼそぼそと独り言で確認すると、望美はドアの周囲をきょろきょろ見回し、コンコンと遠慮がちに軽くノックをした。
知盛の住む部屋には、チャイムなど付いていない。
そのことを、望美は今日初めて知った。
一緒にこちらの世界へ帰ってきてから、すでに1ヶ月以上経っているのだが、望美は初めて知盛の家を訪れた。
望美が、元の生活のペースを取り戻すのに必死だったのも初訪問が遅れた原因の一つだ。
しかし何よりの原因は、知盛と望美との微妙な距離感だった。
テリトリーと呼ぶのであろうか。
他人には決して踏み込ませないものを、知盛は持っている。
かといって、ずけずけと踏み込んでいけるほど、知盛のことを望美は知らなかった。
知っているのは、彼の剣がただ一筋に、望美へと向かってきたことだけだ。
望美と戦っている時の彼は、とても扇情的で魅力的だ。
だが、それ以上のことは知らない。
だから、”来るか?”と素っ気無く知盛が発した言葉に、望美は戸惑いながらも黙って首を縦に振った。
もっと、知盛のことを知りたいと思う。
だが、知盛のことを知るのを怖いとも思う。
そんな相反した気持ちが、望美の中にある。
戦いの中での互いしか知らないから、こうして日常の世界で知っていくことに対して、望美は恐れにも似た感情を抱いていた。
だからこそ、こうして彼の家を訪れるのにも、1ヶ月以上の時を要した。
「帰って…いない……?」
6回ノックをしたが、中から反応は無い。
通路側に一つだけある窓から部屋の様子を伺うけれど、明かりが灯っていない。
訝しみながら、望美は眉根を寄せる。
確か、6時頃には家に帰っていると言っていたはずだ。
仕事が思ったよりも忙しくて、帰ってくるのが遅れているのであろうか。
試しにドアノブを回転させてみたら、あっさりと開いた。
極力音を立てないように開けると、室内にそーっと忍び込んだ。
玄関には、男物の靴が置いてある。
知盛は、すでに帰ってきているようだ。
きちんと並べられた靴を見て、知盛はいつも気だるげで適当なようでいて、几帳面な面も持ち合わせていたのだなと望美は思った。
「入るよー……」
小声でそう言いながら、望美は、知盛の靴と並べてスニーカーを脱いだ。
こうして訪れるまで、あんなに躊躇したのに、あっさりと入ることができたのがなんとも不思議だ。
室内に入るとすぐにキッチンで、その奥に、普段寝起きする部屋があるようだ。
閉まりきっていない扉から、奥の部屋の様子が見えた。
部屋の西側に置いてあるソファから、横になっている人間の足がぴんとはみ出している。
ソファからはみ出してしまうほどの長身。
紛れも無く知盛だ。
足音と気配を殺して望美は知盛に近づくと、彼の眠るソファの近くに跪いた。
脱いだ上着と、外したネクタイが無造作にソファに掛けてある。
ワイシャツの襟元を緩めるためにボタンを幾つか外しているせいか、僅かに覗いた引き締まった胸元。
戦いの時、鋭く望美を見据えてきた瞳が、今は閉じられている。
その寝顔が意外なほど穏やかで、望美は知盛の知らない一面を見せ付けられた気がした。
眠っているだけなのに、知盛はとてつもない色気を発している。
しばらく見とれた後で、望美はふと気がついた。
あの知盛が、望美が入ってきたことすら気づかずに眠っている。
冷静に考えたら、そんなことは有り得ない。
しかし、現に彼は眠っていて……。
ひょっとしたらこちらの世界での生活は、望美が考えている以上に知盛にとって大変なことなのかもしれない。
望美は、そっと知盛の髪に手を伸ばす。
そして、労わるようにゆるゆると撫でた。
初めて触れたその髪は、想像していたよりもやわらかかった。
彼の頬に掛かっている横髪を、そっと払ってやる。
研ぎ澄まされたかのような頬のラインが、露わになった。
眠っていなかったら、こんなことはできない。
知盛は、まるで野生の獣のようだから。
一瞬でも気を緩めてしまうと、噛み付かれてしまう。
それくらい、隙が無い。
「あ……」
望美は、驚きの声を上げた。
眠っていると思っていた知盛に、手を捕らえられたからだ。
「男の寝込みを襲うのがお好きか?神子殿は」
「ち…違……!」
気だるげに開かれた紫色の瞳が、望美の姿を映し出す。
手は、すでに彼に捕らえられている。
しかし知盛の視線を受けて、手だけでなく全身を絡めとられるような感覚に望美は支配された。
いたずらを見つかってしまった子どものような気持ちだった。
「起きていたの?」
「いや、寝ていた」
「本当?」
「ああ。お前が家の中に入ってくるまではな」
「…とっくに起きていたんじゃない……」
望美はむくれながら、知盛に捕らえられた手を解こうとした。
だが、知盛は離そうとしなかった。
離してもらえない手に戸惑いを覚えながらも、望美は知盛の部屋に初めて入っての率直な感想を述べる。
「意外と部屋が綺麗になっていて驚いた。知盛のことだから、もっとぐちゃぐちゃだと…」
照れているせいか、妙に早口になってしまった。
そんな望美の気持ちを察したのか、知盛は引き結んだ唇の端をくっと上げた。
「俺を何だと思っているんだ」
「ごめん。私って、結局は知盛のことをあんまり知らないもの……」
「お前以上に、俺はお前のことを知らないさ」
「そう…だね……」
そこで会話は途切れてしまう。
相変わらず手は握られたままで、どうにも落ち着かない。
望美は次に発する言葉を懸命に探すけれど、うまく唇に乗ってくれない。
焦れば焦るほどそんな風になってしまう。
そんな望美とは対照的に、知盛はこの状況をさして気にも留めていないようで、むしろ楽しんでいるような雰囲気だ。
ふと目を細めたかと思うと半身を起こし、握ったままの望美の手を引っ張り自分の方へと引き寄せた。
「あっ…」
驚きの声を上げた望美の後頭部へ知盛は素早く空いている手を添え、さらに引き寄せる。
次の瞬間、望美はこれ以上ないほど近くに知盛の顔を見た。
瞬きすら、忘れる瞬間。
――キスを…された?
自覚したのは、知盛の顔が離れていくと同時に、握られた手を解放された後だった。
時間にすれば、僅か数秒のこと。
しかし、望美は自分の身に起こったことが信じられなくて、しばらく呆然とする。
無意識のうちに、先ほど触れられた唇へと指先を運んでいた。
みるみるうちに、頬が紅潮してくる。
望美のそんな様子を知盛は満足そうに見詰めた後、再びごろりとソファに横になった。
「剣術に長けた神子殿も、殊に男女のことに関しては不得手とお見受けする」
そう言うと目を閉じ、声を殺しながら知盛は笑った。
とても可笑しそうに。
幾多の時空での彼を望美は知っている。
だが、こんな風に笑う知盛を見たのは、初めてだった。
知盛にバカにされている…いや、からかわれている。
そう感じた瞬間、望美は頭にかっと血が上った。
――負けたくない。
こうしてこちらの世界へやってくるまで、二人の間には常に戦いがあった。
戦のないこの世界では、忘れかけていた感情。
知盛には、負けるわけにいかない。
その感情の赴くままに、望美はまだ笑っている知盛へ覆いかぶさるようにして唇を重ねた。
勢いを付けすぎたのか、ぶつかるように重なった唇が痛かったがそんなこと構っていられない。
唇を重ねたままちらりと知盛の様子を伺ってみると、望美のしたことは想定外の行動だったようで、彼は面食らったような顔をしていた。
不意をつくことに成功した望美は、得意げになって唇を離す。
「知盛こそ、私のことを言えないんじゃない?」
「面白い女だ……」
望美の行動は、知盛を煽るには充分だったようだ。
先ほどよりも楽しげな表情を浮かべると知盛は、望美の腕を掴み強引に引っ張った。
知盛は素早い身のこなしで起き上がると、バランスを崩した望美をソファへと横たわらせた。
体勢が入れ替わって、今度は知盛が望美を上から覗き込んできた。
「何するの!?」
慌てて起き上がろうとしたが、知盛に圧し掛かられてそうも行かなくなってしまった。
両手首を押さえつけられて、抵抗もできない。
せめてもの抵抗の証に、望美は思い切り知盛を睨み付けた。
しかし、知盛にはまったく効いていないようだった。
「いい目をするじゃないか。さすが源氏の神子か?」
「神子じゃない。私には、望美って名前があるの」
望美の言葉に、知盛は目を瞠った。
だがそれも一瞬のことで、目を細めると囁いた。
「俺を焚きつけたのは、お前だろう?望美」
「ちょっ……!?」
先ほど望美がしたように、知盛の唇が勢いよく重なってくる。
一方的にされるキスは不本意で、望美は逃れるために身を捩ろうとした。
だが、その動きも一瞬のことで、すぐに止まってしまった。
知盛のキスが、とてもやさしかったから……。
手首をソファへと縫い留めるように押さえつけられているのは、相変わらずだ。
その乱暴とも言える行為とはうらはらに、望美の唇を愛しむかのように知盛の唇は触れたり離れたりを繰り返す。
それを感じると、望美から抵抗しようとする力が徐々に抜けていった。
抵抗する意志が無くなった事を感じ取った知盛は、望美の両手首を押さえつけていた手をそっと外す。
そしてそのまま望美の頬に触れると、さらに深く唇を重ねてきた。
初めてのキスに戸惑う望美を宥めるかのように、知盛の舌が望美の唇を柔らかく撫でてくる。
望美が恐る恐る受け入れると、それすらも見通しているのか知盛は望美の口腔内をそっと探ってきた。
これ以上、怯えさせまいとするかのように。
知盛の舌が、望美の中をゆっくりと這い回る。
初めて受け入れる他人の舌のせいで、くすぐったいような感覚が望美の身体の奥から滲み出してくる。
こんな感覚、知らない。
でも、とても気持ちがいい。
知盛に導かれ、いつしか望美は夢中になってキスに応えていた。
そして望美の変化に応じて、知盛は激しく望美の中を探っていった。
黄昏時の薄暗い部屋の中に響くのは、二人の粘膜の絡み合う音のみだった。
「急に大人しくなったが、先ほどまでの勢いはどこへ行った…?」
重ねていた唇を離すと、知盛は問いかける。
浅い呼吸に胸を苦しげに上下させながら、望美はとろりとした視線を知盛に向けた。
「知盛が…やさしいから……」
「俺が…やさしい?」
望美の言葉は知盛にとってひどく意外だったようで、不可解そうに眉根を寄せている。
「自分のこと…分かっていないんだね」
「ククッ……」
「…?」
知盛が急に笑い出して、望美は目を瞬かせた。
ソファから起き上がろうとしたが、その動きを知盛に制せられた。
「お前は、俺に俺のことを教えるのか?」
「…?」
知盛の言わんとすることを、望美は瞬間的に飲み込むことができない。
言葉を失い薄く開いた望美の唇に、知盛の親指がゆっくりと這っていく。
その感触に身体の芯がぞくぞくとしてきて、望美は目を瞑り肩を竦めた。
「お前のことを教えろ。俺の知らないお前のことを、もっと」
その言葉に、望美は瞑っていた目を恐る恐る開けた。
心も身体も、すべて焼き尽くしてしまいそうな知盛の瞳が目の前にある。
獲物を前にした獣が舌なめずりするかのように、知盛は自らの唇を舐めた。
さっきまで、望美を翻弄していた唇を…。
その瞳…その唇…その仕草……。
望美は、知盛のすべてから、目を逸らすことができない。
認めざるを得ない。
知盛に魅せられてしまった自分を。
望美は、唇をなぞる知盛の親指をそっと口へと含んだ。
知盛は口の端を上げ満足げに微笑むと、望美の上へと覆いかぶさってきた。
「お前こそ、自分のことを分かっていないな……」
望美の耳朶を甘く噛みながら、そう呟いた。