やさしい手、魔法の手

「あれ……?知盛……」

望美がふと目を覚ますと、部屋の中に知盛がいた。
いつからいたのだろう。
高熱の出た倦怠感から深い眠りに落ちていて、彼が来た気配にまったく気がついていなかった。
知盛は勉強机の前にある椅子に腰掛け、腕を組んで望美を見つめている。
慌てて半身起こしたところで、くらりと視界が揺らいだ。
熱はまだ下がっていないようだ。
その様子を察した知盛に、望美の身体は支えられた。

「いつの間に来たの?」
「……寝ていろ……」

望美の問いには答えず、知盛は望美をベッドへ横たえて布団をかぶせた。
望美の額に、知盛の手のひらが触れる。
その冷たい感触が熱を帯びた額に心地よくて、望美は目を閉じてほうと息をついた。

「熱いな……」
「うん。たぶん、まだ熱がある……」

ここのところ続いた寒さのせいで、風邪を引いてしまったようだ。
普段病気なんて滅多にしないから、体調が悪いことに気がつくのに時間が掛かった。
学校で授業を受けていても、何となく頭が痛いなと感じていたのが金曜日の午後。
本人よりも先に、隣の席にいた将臣が望美の体調の悪さに気がついたくらいだ。
結局、家に帰ると同時に寝込んでしまい……。
熱を測ってみたら、38.6度。
母親に支えてもらいながら、医者にかかったのだった。
そしてこの通り寝込んでしまい、もう3日目になろうとしていた。
土日をはさんで寝込んでしまったので、いつも日課としている週末の知盛とのデートもままならなかった。
わざわざこうして見舞いに来てくれるだなんて……。
望美に会えない週末を、知盛はさびしいと感じてくれていたのだろうか。

望美の額に触れていた知盛は、手をそのまますべらせると熱を帯びた頬を撫でてきた。
いつもと違う……。
知盛の手の感触の違いを、望美はすぐに感じた。
いつも触れる時、知盛の手は、望美の身体の中に燻っている炎を暴き煽り立てる。
その手によって煽られると同時に湧き上がる快感に、望美は我を忘れさせられてしまう。
しかし、そんな知盛の手が……。
いつもとは逆に、望美を宥めるかのようにひんやりとしていてやさしい。

しばらく望美の頬を撫でた後、知盛の手は離れていった。
それが何だかさびしくて、望美は寝転んだまま首を動かして知盛を見た。
すると知盛は、見舞いの為にわざわざ用意してきたのだろう。
素朴な茶色の紙袋を膝の上に乗せると、その中からがさごそと何やら取り出した。
取り出したのは、暖炉の火を思わせる色をした蜜柑だった。

「蜜柑……?」
「たちばなのことを、そう呼ぶのか?」
「たちばなって、どういうものだかよく分からないけど……。たぶんそうだと思う」

だが、望美の話を半分しか聞いていないのか、ろくに返事もせずに知盛は黙々と蜜柑の皮をむき始めた。
たちばなだか蜜柑だか……そのものの本当の名前など、知盛にはさして興味の無いことなのかもしれない。
皮を剥くと同時に、果実のはじけるみずみずしい香りが部屋の中に広がっていく。
熱でぼんやりした頭をすっきりさせようとするかのように働きかけてくる柑橘系の香り。
望美がその香りを吸い込みながら目を閉じると、唇にひんやりと冷たいものが押し当てられた。
ごく間近に蜜柑の香りを感じる。
唇に押し当てられたそれが蜜柑であることは、容易に分かった。
知盛からの言葉は無かったけれど、食べるように促されていることを感じる。
望美は、押し当てられていた蜜柑の果実をそっと口に含んだ。
噛み締めると同時に口の中で果実が弾けて、甘酸っぱい味が広がる。
果実が、身体にじんわりと沁み込んでいく感覚を覚えた。

「袋まで……剥いてくれたの?」

一粒食べたところで、望美は意外な事実に気がついて知盛に尋ねた。
病気の望美が食べやすいように気遣ってか、蜜柑の皮だけでなくその下の袋まで知盛は取り除いてくれていたのだ。
望美の口に入ったのは、水分をたっぷり含んだ果実だけ。
見舞いの為にわざわざ蜜柑を買ってきてくれただけでも意外だったのに、そんなまめまめしさを知盛が持っていただなんて……。
ほんの少しの驚きを胸に、望美は寝転んだまま知盛を見つめる。

「余計なことを考えるな。食え」

知盛は短くそう言うと、再び望美の口元へと蜜柑を運んできた。
そのまま二切れ目を食べる。
熱が出てから、すっかり食欲を失ってしまっていたのに……。
でも、知盛からもらう蜜柑はこんなにすんなりと食べられる。
そして、まるまる一個蜜柑を食べきってしまった。
倦怠感を覚えていた身体に、少しだけ力が湧いてきた気がする。

「少し、痩せたか?」

蜜柑を食べさせ終えると、知盛は再び望美の頬を撫でた。
望美は目をゆるゆると閉じながら、首を振った。

「分かんない……」

すると、頬を撫でていた指が首筋へと流れていく。
ひやりとした感触に、望美は思わず肩をすくめた。

「やはり痩せたな……」

そう言いながら知盛の指は、望美の首筋から肩へと流れていく。
肩から左胸へと移動していき……。
そこで、知盛の手の動きは止まった。
乳房の上に手を置いたまま……。
だが、知盛の手は望美の胸に触れているものの、いつものように性的なものを感じさせない。
不思議なことだ。

――トクトクトク……。

押し当てられた知盛の手のひらに、脈打つ心臓の音が伝わっていくのが分かる。
望美の鼓動を感じながら、知盛は目を細めた。

「俺の手のひらに余るくらいで丁度いい。あまり痩せすぎるな」

婉曲に述べられているけれど、何のことを言っているのかは明らかだった。
寝転んだままの姿勢で、望美は唇を尖らせて知盛のことを軽く睨んだ。

「もう……何のこと言ってるの?」
「クッ……そんな目ができるのならば、大丈夫そうだな」

望美の反応を見て、知盛は笑った。
そして、また望美の額に触れる。
額にかかった前髪をかき分けながら、そっと梳いていく。
ほんのり蜜柑の香りのする知盛の指先。
指先から、知盛が望美のことをどれだけ心配しているのかが伝わってくる。
さっきのストレートでない言葉も、きっと彼なりの気遣い。
それを感じた望美の心は、知盛のやさしさで満たされていく……。
そして、満たされることによって、癒されていく……。
その心地よさに身を委ねながら、望美は目を閉じた。

「俺を置いて、逝くな……」

ふいに零れた知盛の言葉。

やはり、いつもと違う。
いつだって置いて逝ってしまうのは、彼の方だったのに……。
望美を残して、一人で海の底へ沈んでいってしまう。
置いて逝かないでと思っていたのは、いつも望美の方で……。
この状況は、これまでとは逆だ。
望美は、知盛の手の感触に眠りの世界へと誘われながらも、小さな声で呟いた。

「知盛……おおげさ……。ただの風邪だから……大丈夫だよ……」

望美の言葉に返事をする代わりに、知盛が笑ったような気配があった。
これまでの彼からは聞いたことのない、やさしく穏やかな笑い声。
彼がどんな笑顔を浮かべているのか確かめたかったけど、瞼が重くて上がらない。

やはり今日は、いつもと違う。
いつもの知盛じゃない。
そう感じるのは、熱があるせいなのか……。
本当にそうなのか……。

そんなことを考えながら望美は、そのまま穏やかな眠りへと入っていった。
ゆるゆると髪を撫でる知盛の手の感触に包まれながら……。

きっともうすぐ熱は下がる。
やさしい魔法の手に、こうして触れられているのだから。