Critical point

学校帰りに、駅前のちょっとお洒落なカフェに寄り道をする。
それはこれまで望美にとって、日常的にありふれたことだった。
しかし、そのただの寄り道も、今の望美には特別な意味合いを持っていた。

「6時か…。仕事が長引いているのかな?」

壁に掛けられた時計にちらりと目をやると、丁度6時を告げる鐘の音が店内に響いた。
窓の外を眺めると、夕暮れ時の町並みを家路を急ぐ人々が忙しなく歩いている。
明日は休日。
金曜の夕方ということで、人々の足並みはどことなく軽く感じられる。
望美は無意識のうちに、その人たちの中に長身の恋人の姿を探した。
異世界から連れてきた恋人・知盛の姿を。

あちらから帰ってきてから、あっという間に数ヶ月が過ぎようとしている。
時空を越え、平安時代末期に似た世界へ飛ばされた望美は、そこで白龍の神子として剣を振るった。
五行の均衡が崩れ、戦の絶えなかった世界を救うために。
幾多の運命を乗り越え、最後にたどり着いたのが鎌倉に帰還した今の運命だった。
そしてこの運命で、望美はようやく手にすることができたのだ。
平知盛という男を。
彼は、望美がどの運命を選んでも、必ず死んでしまった。
しかし、その彼がこうして生きて、望美の恋人として現代の鎌倉にいる。
そのことを思い返すたびに、望美は運命の不可思議さを感じずにはいられない。
だが、この運命は望美が貪欲に彼のことを求めたからこそあるのであって、不可思議と言うよりも当然の上で成り立っているのかもしれない。

知盛がこちらの世界でやっていくことに、望美はたくさんの不安を抱いた。
しかし、望美の不安をよそにあっさりと知盛はこちらの世界に馴染んでしまった。
あの”平知盛”が、こちらの世界で普通に働いているのだ。
その事実に驚くと同時に、ある運命の熊野にて中納言として後白河院に接していた彼の姿を思い返して、ようやくなるほどと望美は納得した。
しかし、二人の立場は現代に来ることによって、高校生と社会人になった。
ゆっくりと会う時間も、なかなか取れない。
こうして週末に待ち合わせたりして、会う時間を設けていた。

「うーん……。やっぱりこんな早い時間に待ち合わせって無茶だったかな……」

鞄の中から携帯を取り出すと、知盛にメールを打とうか望美は迷った。

携帯があるから、いつでも連絡は取れる。
彼のアパートの合鍵は持っている。
待ち合わせは止めて、彼のアパートに行って待つという選択肢もあった。

そんなことを考えながらメール作成画面を呼び出そうとしたけれど、望美は止めてテーブルの上に携帯を置いた。
もう少しだけ待ってみよう。
こうして彼のことを待つ時間も、今は愛しく感じられる。
戦いの中でしか出会うことのできなかった彼を、こうして平和な世界のゆっくりとした当たり前の日常の中で待つ。
これ以上の幸せは、無い。

ふと思い立って、望美は鞄の中に入っているポーチを探った。
徐に取り出したのは、小さなチューブに入ったかわいらしい化粧品。
望美はその容器からとろりとした液を指先に取った。
その液は、鮮やかな赤い色味を帯びていた。
それを唇に乗せることにより、唇がほのかに赤く色づく。
チェリーレッドと言う名で売られていたそれは、望美の唇を艶やかに彩った。
その名の通り、アメリカンチェリーで作られたゼリーを思わせる。
唇に艶とほんの少しの色味を与える、リップグロスと言う化粧品だ。
初めて塗る化粧品がどうにも落ち着かなくて、望美は手鏡も取り出すとしげしげと自分の唇を眺めた。

真っ赤な口紅を塗るほど、大人じゃない。
けれども、無色のリップクリームだけで済ませられるほど子どもじゃない。
知盛という男に出会って、望美はそんな危うさを手に入れた。
彼女の危うさが、こうして今リップグロスを塗らせた。

カフェの扉に掛けられた鐘をからんと鳴らし、長身の男が入ってきた。
かっちりとしたスーツに身を包んでいるが、仕事を終えたからであろうか、ネクタイと襟元を少しだけ緩ませている。
しかしそれでも決してだらしなく感じられないのは、彼の持つ雰囲気故だろう。
知盛だ。
望美は慌てて手鏡を鞄の中に押し込むと、立ち上がり手を振った。
そんな望美に一瞥をくれると、知盛は真っ直ぐに歩いてきて向かいの席に座った。

「コーヒーと、カプチーノ」

知盛に、余分な言葉は無い。
待ち合わせに遅れたことを詫びたり、言い訳したりするような。
水とおしぼりを持ってきたウェイトレスに、ただ、手短に注文を伝えた。
望美がいつも飲む物を付け加えて言ったのが、彼なりの気遣いだ。

「何を、笑っている?」

口元に浮かんだ笑みを隠せずにいる望美に気がついて、知盛は尋ねた。

「ごめん。だって、注文するのもずいぶん慣れたものだなと思って…。あの、知盛が……」

肩を揺らしながら言う望美を見つめ、知盛は不機嫌そうに片眉を上げた。
しかし、彼は決して怒っている訳ではない事を望美は知っている。

「今日は金曜日だから、10時までか?」
「うん。今日の門限は10時」

望美が頷くと、ウェイトレスが二人分の飲み物を運んできた。
知盛はそれをすぐに手に取ると、一口啜った。
一方望美は、砂糖を入れるためにテーブルの隅に置かれていた白いシュガーポットを引き寄せる。

「短いな……」
「え?」

シュガーポットの蓋を手にしたまま、望美は顔を上げた。
知盛は、何も無かったかのような顔をしてコーヒーを飲んでいた。
だが片眉は、相変わらず不機嫌そうに上がったままだ。
そんな彼の表情を眺めながら、望美は角砂糖を1個取り出すとカプチーノに放り込んだ。
もう一口コーヒーを飲むと、知盛はカップをソーサーの上に置く。
そして視線を、望美の方へと向けた。

望美を射るような視線。
衣服を…皮膚を貫き、身体の奥底まで見透かされてしまいそうなその視線。
彼の視線を受けると、望美は焼ききれてしまいそうなほど身体が熱くなる。

そんな動揺を隠すように、望美は砂糖を溶かしたカプチーノを勢いよく一口飲んだ。
喉を通っていく、ほろ苦いけれど、甘く熱い液体。
泡だったミルクと一緒に流れ込んでくる。
たった一口なのに、ミルクの泡は望美の唇に纏わりつく。
望美は思わず、唇をぺろりと舐めた。
カプチーノの味と一緒に、先ほど塗ったリップグロスのどこか薬っぽい味がした。

「………」

望美の様子を、知盛は黙ったまま見つめている。
絡みついてくる視線に耐え切れず、望美は瞬きを繰り返しながら目を伏せた。

伏せた視界に入ってくるのは、カプチーノの入ったカップ。
カップの縁には、赤いリップグロスが付いている。
リップグロスは、唇を鮮やかに彩るものの、飲んだり食べたりするとすぐに落ちてしまう。
グロスを塗るタイミングが早かったなと思いながら、望美は、カップに付いた赤を見つめた。

「美味いのか?」
「…え?」

唐突に問われて、望美は目を瞠った。
知盛は、望美を先ほどと変わらずに見つめている。

「お前は、いつもそれを飲んでいるだろう。美味いのか?」
「コーヒーとそんなに変わらない味だよ。でも私は苦いコーヒーが飲めないから、お砂糖を入れていて甘いよ」
「俺にも、飲ませろ」
「あ……」

望美の返事を待たず、知盛は望美のカップを素早く手に取ると一口飲んだ。
躊躇することなく。
そして無駄の無い動きで、望美のカップをソーサーへと返した。

その一連の動作を、望美は目を逸らすことなく見つめていた。
いや、逸らすことができなかったと言った方が、正しいのかもしれない。
カップに付いていた望美の赤いグロスが、同じカップで飲んだ知盛の唇にしっかりと移った。

「知盛……。口に……」

望美は、彼の唇を拭おうと慌ててテーブルの上のナフキンを手に取ろうとした。
しかし、その動きははたと止まった。
知盛の次の動作を目にしたら……。

知盛は望美を見つめたまま、リップグロスの移ってしまった己の唇を舐めていた。
彼の舌は、唇に付着したリップグロスを丹念に拭っていく。
ゆっくりと唇の上を往復すると、舌は彼の唇の中へと戻っていった。
それを目にしたまま、望美は呪縛にかかったように動けなくなった。

知盛は、ただグロスの移った己の唇を舐めただけだ……。
それなのに望美は、彼の舌に自分の唇が舐め回されたかのような錯覚を覚えた。
ただ、その舌の動きを見ていただけなのに。
肉食獣のようでいて、いつも恐ろしいほどやさしく望美を愛撫する知盛の舌。
望美の唇を、身体を、その全てを余すことなく……。
蕩けるほどに……。
やさしい彼の舌の感触が、フラッシュバックする。
望美は頬を染めながら、口元を押さえた。

「感じたのか?」
「なっ…!」
「そんな顔をしている」
「……」
「図星だったようだな」
「ばか………」

返す言葉が無い時に、ついつい出てしまう憎まれ口。
望美は、カップを手にすると一気にカプチーノを飲み干した。
先ほど知盛が口を付けた所に、唇を当てて。

「ところでその紅、まずかったぞ」

望美はカプチーノを噴き出しそうになったのを、寸でのところで踏みとどまった。

「…似合わなかった…?」
「いや。悪くはない」

くっと笑うと、知盛は望美の唇を見つめた。

「ただ、その紅の味が苦かっただけだ。飲み物は甘かったがな」

望美の唇を見つめる知盛の瞳は、挑戦的な光を帯びている。
獲物を狙うかのように。
彼の視線にすら、愛撫される。

「お前の唇の味は?」
「知ってるくせに」

絡み合う二人の視線。
臨界点は、近い。

知盛は、伝票を取ると立ち上がった。

「来いよ……」
「どこに?」
「随分と、野暮なことを聞くんだな」

知盛が、自分のことを求めている。
違う。
望美が求めるからこそ、彼も求めるのだ。
今日は互いの渇望が、リップグロスを通して露わになっただけ。

「分かった」

短い答えだったが、望美の反応に知盛は満足げな笑みを浮かべると、会計を済ませるためにレジへと向かった。
そんな彼の後姿を眺めながら、望美は店の外へと出た。

知盛は後を追うように店の外へ出てくると、望美の腰を捕らえ引き寄せた。
引き寄せられると、知盛の香りに包まれる。
いつもなら身を委ねるところだが、むずがるように、望美は身じろいだ。
これだけでは、もう足りない。

「何だ?嫌だったか?」
「違う。早く……行こう……」

知盛の腕を捕らえながら、望美は微かな声で言った。
その声は少し掠れていて、望美の身の内に燻り始めた熱を伝えている。
そのことにすぐに気がついた知盛は、笑った。

「クッ…。貪欲だな」
「お互い様でしょ」

甘いのは、砂糖の入ったカプチーノだけじゃない。
今はただ、それだけを確かめたかったし、確かめて欲しかった。
二人でいる限り、互いにどこまでも貪欲になっていく。
知盛は掠めるような口付けを望美の頬に与えると、ともに歩き始めた。
足早に向かう先で待っているのは、二人きりで貪る甘い時間。