月と太陽
あたたかな光を放つ太陽が、百合子は好きだ。
でも、その光はとても眩しくて、とても熱くて……。
目が焼け焦げてしまいそうで、長く見つめることは叶わない。
その代わり、儚くもやさしい光を放つ月は、いつまでも見つめていられる。
だから、やさしい月の光が、百合子は好きだ。
太陽とは違う意味合いで、好きだ。
――太陽があるから、月は輝いている。
そう教えてくれたのは、誰だったろう?
◆
百合子は木の幹にもたれ掛かりながら、空を見上げていた。
鬱蒼と茂った木の葉の間から、太陽の光が降り注いでくる。
その眩しさに、思わず目を細める。
眩しいけれど、暖かな太陽の光に包まれながら、百合子はひとつ、ため息を吐く。
野宮家の庭にある一際大きなこの木には、大切な思い出がある。
幼い頃、兄や秀雄、世話係の女中たちとかくれんぼをした思い出。
なぜか今日は、それを鮮やかに思い出される。
◆
「秀雄さんが鬼ね。ゆっくり10数えるのよ」
「分かっている」
鬼である秀雄が数え始めると同時に、百合子は大急ぎで駆け出した。
瑞人も、百合子の遊びに巻き込まれた女中たちも、どこかに隠れるために動き始めた。
それを横目で見ながら、百合子が目指したのは、野宮家の庭で一番大きな木。
息を切らせてたどり着くと周囲を見回し、百合子は木の枝に手を掛けてするすると登った。
ここなら、すぐには見つからないだろうと一番高い枝まで登った。
百合子は、華族令嬢らしからぬお転婆で、木登りなんてお手の物。
(ふふっ。秀雄さん、気づいていないわ)
まさかこんな高い所にいるとは思ってもいないようで、きょろきょろとあたりを見回しながら歩いていく秀雄の姿を、ある種の優越感を持って木の上から眺めた。
そうしているうちに、瑞人や女中たちが見つかった声が庭に響いてくる。
百合子以外は、みな見つかった様子だ。
「百合子ー。どこにいるんだい?」
「姫様。どちらにいらっしゃいますか?」
なかなか見つからない百合子を、鬼である秀雄だけでなく、全員で探し始めた声がする。
仕方がない、そろそろ登場してみなを驚かせてやろう。
かくれんぼの勝者になった浮かれた気持ちで、百合子は降りようとした。
しかし……。
降りるための支えにしようとした枝が、ぽきりと乾いた音を立てて折れてしまった。
寸でのところで転落は免れたものの、百合子は恐怖からそのまま降りられなくなってしまった。
(どうしよう、どうしよう!)
木の上で、百合子は激しく混乱した。
こんな高いところから飛び降りるだなんて、不可能だ。
混乱したせいで、助けを呼ぶことも忘れてしまう。
そうしているうちにも、百合子を探して呼ぶ声が、焦った色を帯び始める。
太陽も夕方になり傾いてきて、東の空には白い月が浮かんできた。
そんな月の姿が、百合子をより混乱させた。
もうすぐ、夜がやって来る。
このままでは、百合子は誰にも見つけられないまま、夜になってしまう。
残酷な事実を突きつけるかのように、月の白色は、時間とともに冷えびえとした雰囲気を漂わせ始める。
しかし、百合子は何とか見つけてもらえることができた。
声も出せずにいる百合子を見つけたのは、兄の瑞人だった。
「百合子!」
「お兄様……」
木の枝にしがみ付いている百合子に気がつき、瑞人は目を瞠った。
「どうしたんだい?早く降りてくるんだ。危ないじゃないか」
「……」
「……百合子?」
言葉を失っている百合子に、瑞人は首を傾げる。
「お兄様……」
消え入りそうな声で兄を呼びながら、百合子の目からは涙がぽろぽろと零れてきた。
それは、見つけてもらえた安心感と、見つけてもらえてもどうにもならない絶望感がない交ぜになった涙だった。
こんな高いところから百合子を助けるなんて、年上とはいえまだ幼い兄には不可能だ。
「まさか、降りられなくなったのかい?」
瑞人の問いに、百合子は黙ったままこくこくと頷いた。
すると、瑞人は思いもよらぬ行動に出た。
木の枝に手を掛けると、百合子のところまでそのままするすると登ってきたのだ。
突然の兄の行動に、百合子は驚いた。
兄・瑞人はおっとりとした性格で、木登りのようなやんちゃなことはしない子どもだった。
そのため、”姫様と若様の性別が逆なら良かったのに”と、女中たちはよく嘆いていた。
そんな兄が、百合子のために木に登ってきたのだ。
しかも、随分手馴れた様子で。
兄が木登りをするのを見るのは初めてだったが、今日初めて登ったという様子ではない。
百合子の知らない兄の一面だった。
そして、百合子のいる枝まであっさりと来ると、瑞人は微笑んだ。
「もう大丈夫だよ。百合子」
百合子は泣きじゃくりながら、兄の腕につかまった。
「お兄様、大丈夫なの?」
「ん?」
「お兄様は、こんな高いところ怖くないの?」
「百合子がいるから、平気だよ」
なんてことの無いように、瑞人はそう言い放った。
しかし、百合子は一番危惧していることを瑞人に尋ねる。
「でもお兄様、降りられるの?」
「うーん……。僕は、何とか降りられるかな……」
そう言いながら、瑞人は地面と百合子の顔を交互に見つめた。
「そうよね……。お兄様がせっかく来てくれても、私と一緒には降りられないわ……」
今はこうして瑞人が傍に来てくれたけど、結局は、百合子だけが木の上に取り残されてしまう。
不安で仕方がなくて、百合子は唇を噛んだ。
「そうだね……。僕は、百合子と一緒には降りられない。でも、一緒にいることはできるよ」
「……?」
瑞人の言わんとすることを図りかねて、百合子は首を傾げた。
「一人ぼっちは、寂しいから。だから、僕が百合子の傍にずっといるよ」
「お兄様……」
「一人よりも、二人でいれば怖くないだろう?だから、僕は百合子が降りられるまで、ここにいることにするよ」
このまま、永遠に降りられないのではないかという不安はまだ残っている。
しかし、こうして兄がずっと傍にいてくれるのならば、怖くはない気がした。
百合子は、ただひたすら兄の腕に縋っていた。
結局、百合子だけでなく瑞人までも見つからなくなってしまい、屋敷はちょっとした騒ぎになった。
最終的には、二人して木の上にいるところを発見され、はしごを掛けてもらい、無事に降りることができたのだった。
ようやく木から降りられて、ほっとして空を見上げると、月が青白い光を放っていた。
日はすっかり暮れてしまっていた。
太陽は、百合子のことを見捨てたように沈んでしまったけれど、月は最後まで見守ってくれていた。
先ほどはあんなに冷たく感じた月が、とてもやさしく見えた。
その後、母・繁子に、兄が激しく叱責されたことを知り、百合子は胸が痛んだ。
よくよく考えれば、百合子を見つけた瑞人が大人に助けを求めれば良かったのだ。
でも、瑞人は百合子の傍にいることを選んだから、二人して行方不明のようなことになってしまった。
兄が悪いのではない、元はといえば、木の上から降りられなくなった自分のせい。
”傍にずっといる”と言ってくれた兄の言葉と行動に、百合子がどれだけ救われたことか……。
しかし、母にいくら言っても、兄の浅慮を非難するばかりで、聞く耳を持ってはもらえなかったのが幼心にもくやしかった。
◆
こうして思い出してみると、幼いあの頃から、兄は百合子のことを誰よりも想ってくれていた。
どうしてこれまで、兄の想いに気づかなかったのだろう。
百合子は、またため息を吐いた。
ここ最近、ふとした瞬間に昔のことを思い出す。
思い出したことはすべて、自分が兄にどれだけ想われていたかということを、百合子に自覚させてくれる。
幼い頃は何気なく通過してきてしまった出来事だったけれど、今、改めて思い出すと甘酸っぱいような胸の疼きを覚える。
同時に、胸がとても熱くなる。
(ああ、やはり私はお兄様のことが好きなんだわ……)
そして、自分の瑞人に対する恋情を、ますます自覚してしまう。
しかし、思い出に浸っているのが、その苦しいくらいの胸の熱さの原因ではない。
こんな思いを百合子が抱えてしまうのは、きっと瑞人に抱かれたせいだ。
兄に望まれ、そして、百合子自身も兄のものになることを望んで抱かれたのは、つい先日のこと。
一度身体を重ねてしまえば、もう互いの想いを止めることはできなかった。
あれから何度も百合子は瑞人に抱かれ、身体に兄の想いを刻みつけられてしまった。
そのせいで、ひとりでいるときも、兄のことをつい思い出してしまう。
愛を囁く掠れた声、百合子を求めて熱く火照った肌、濡れた瞳。
すべてがありありと……。
絵の仕上げをすると部屋にこもっている兄を待つ間も、その熱が恋しくて堪らなくなり、切なげなため息をついてしまうのだ。
そうしているうちに、暖かな日差しに誘われるように、眠気が百合子を襲ってきた。
連日兄に抱かれるという慣れない行為に、思いのほか疲れが溜まっていたようだ。
辛いのだけれど、幸せな倦怠感。
しかし、こんなところで眠ってしまう訳にはいかない。
でも、もうしばらく兄への想いに浸っていたい。
こうして兄のことを想っているのは、苦しいけれど、とても心地の良い時間だからだ。
そんな矛盾した思いに支配されながら、百合子は何度目か分からないため息を吐いた。
「姫様。どうされたんですか?お疲れなんですか?」
「あ、真島……」
すると、突然声を掛けられて、はっとした。
目の前に園丁の真島が、心配げに百合子の顔を覗き込んでいた。
野宮家の庭の管理をしている彼がここにいるのは、ごく当然のことだ。
百合子は瑞人への思いに浸っていたのだが、口に出していた訳ではないのだから、ぱっと見て分かるものではない。
しかし、何だかいけないところを見られたような気がしてしまう。
頬が火照ってくるのをごまかすように微笑みながら、百合子は答えた。
「疲れている訳ではないわ。ちょっと、時間を持て余してしまっていたの。心配をさせてしまってすまないわね」
「いえ。姫様の具合が悪いのでなければ、いいんです」
「でも、ちょっと眠くなってしまって……。部屋で休むことにするわ」
からっとした笑顔を浮かべる真島に、これ以上心配を掛けてはいけないと思い、百合子は慌てて立ち上がった。
しかし、慌てて立ち上がったのがいけなかった。
立ちくらみが起こり、身体が傾いた。
「姫様!?」
ふらりとした百合子の身体を、真島が支えてくれた。
瞬間、真島の香りに百合子は包まれた。
甘くやさしい香り……。
百合子を眠りに誘おうとしていた暖かな太陽を、その香りは連想させた。
とても、心地の良い香りだ。
「真島、太陽みたいな香りがするわ……」
思わず、ぽつりとそう呟いてしまった。
「ええ!太陽……ですか?」
何気ない百合子の言葉は、ひどく真島を驚かせてしまったようだ。
真島から離れると、百合子は微笑みながら言った。
「真島は、庭にいつもいるからかしら?太陽みたいないい香りだわ」
「太陽みたいと言われたのは初めてです。確かに俺、におうらしいですが……。臭くありませんか?」
「臭くなんかないわ。私はこの香り、好きよ」
百合子がそう言った瞬間、真島の顔からすっと表情が消えた。
その表情に、何か自分は悪いことを言っただろうかと、百合子はひやりとした。
「姫様にそんな風に言われるなんて、勿体無いです。いやー、太陽ですかー……」
いつもどおりの微笑みを浮かべて、真島はそう言った。
その表情を見て、先ほどの冷たい表情は、気のせいだったのだろうと百合子は思い直した。
――真島は、太陽の香りがする。
太陽に関連して、百合子はあることを思い出した。
「そう言えば、鏡子様にお兄様はお月様みたいと言われたわ」
「殿様が、ですか?」
「ええ。匂いではなく、雰囲気の話だけど……。ふふっ、このお屋敷にはお月様とお天道様がいるのね。真島は太陽で、お兄様は月」
それは、真島には関係のない話だ。
しかし、真島から香る太陽の香りから、月に喩えられた兄がつい結びついてしまったので、何気なく話題に出してしまった。
「そりゃあ、昼間と夜がいっぺんに来ちまった感じで大変ですね」
無邪気に笑う百合子に、真島は笑いながらそう言った。
そして、百合子に尋ねてきた。
「しかし、昼間も夜も来ちまったら困りますね。月と太陽は、同時にいられません。どうしても選ばなくちゃいけなくなった場合、姫様はどちらをお選びになりますか?」
「え……」
思いもよらぬことを尋ねられて、百合子は目を瞬かせた。
どちらかだなんて、選べるわけがない。
百合子は、太陽のあたたかな光も好きだし、月のやさしい光も好きなのだ。
「難しいわ……」
困惑して首を傾げる百合子を見つめながら、真島はすっ目を細めた。
「なら、姫様は選べないんですか?」
「ええ。だって、私はどちらも好きだもの。そうね……。どうしても選べと言うならば……。ああ、でもやはり選べないわ」
百合子の答えに、真島の唇は弧を描く。
その真島の唇の端が僅かに震えていることに、真剣に考え込んでいる百合子は気づいていない。
「……姫様は、もう選んでいらっしゃるでしょう……」
「……真島?」
真島がなにやら呟いたのだが、聞き取れなかった百合子は真島の顔をじっと見つめた。
しかし、真島は曖昧な微笑を浮かべるばかりだ。
元々、百合子に聞かせるつもりはなかったらしい。
「いえ、何でもありません。それより、早くお部屋にお戻りください。姫様は、やはりお疲れのご様子ですから」
「ええ、そうさせてもらうわ。真島、支えてくれてありがとう」
真島に別れを告げて、百合子は自室へと戻る。
戻りながらも、頭の中では瑞人のことを思っていた。
倒れそうになった百合子を支えてくれた真島。
その身体から香る太陽のような香り。
良い香りだったけれど、今の百合子がより好ましいと感じるのは、兄から香る油画独特の癖のある香りだ。
真島の香りを嗅ぐことによって、その香りが、妙に恋しくなってしまった。
時間を忘れて絵を描くことに没頭しているであろう、瑞人のところにあとでお茶でも持っていこう。
そんなことを考えながら、百合子は歩みを速めた。
いつの間にか日は傾き始め、東の空に白い月が浮かんでいた。
もうすぐ、夜がやって来る。
兄に抱かれることを思いながら、百合子は鼓動の速まる胸を押さえた。
◆
去っていく百合子の後姿を、真島は冷えた思いで見つめていた。
「姫様。あなたはもう、選んだのでしょう?」
(太陽ではなく、月を)
あえて、その続きは口には出さない。
そう、真島は見てしまったのだ。
瑞人の部屋で、百合子の華奢な白い肢体が、組み敷かれているところを。
兄である、瑞人に……。
無理やりの行為では無いことは、百合子の上気した頬と、悦に喘ぐ声ですぐに分かった。
二人は、愛し合っているのだ。
腹違いとはいえ、実の兄妹である二人が。
身の毛もよだつほどに、おぞましい。
なぜなら、血を分けた兄妹が愛し合うことがどれだけ罪深いことか、真島は知っているからだ。
――真島は太陽で、お兄様は月。
先ほどの百合子の言葉を思い出すと同時に、苦いものがこみ上げてきた。
そう言い放った彼女の無邪気な笑顔に惹かれながらも、真島の心はかき乱される。
何て、皮肉な喩えだろう。
明かされてはいないものの、真島は百合子の血を分けた兄だ。
百合子の母親である繁子が、実の兄との近親相姦の末に産まれた子ども。
それが、真島。
しかし、その事実をこの屋敷の中で知るものは、今のところ真島以外、誰も居ない。
いわば、日の当たらぬところにいる存在の兄だ。
そんな自分が、太陽だなんて……。
滑稽にも、ほどがある。
そして、何も知らぬ百合子の放つ言葉の、何と残酷なことか。
憎い、憎い。
膨れ上がる熱。
この身の内に宿る焦げ付きそうなほどの熱は、確かに太陽に匹敵するかもしれない。
もうすぐだ。
太陽が、この家ごと彼女を燃やしつくしてしまう時は、近い。
すべて燃やしてしまったら、太陽は消えよう。
太陽が消えてしまえば、月はもう輝くことが出来ない。
月は、太陽の光を受けて輝いているだけで、自ら光は発していないのだから。
憎い、憎い、愛してる。
真島は、妹である百合子のことをどうしようもなく憎むと同時に、愛している。
庭にひとり佇む真島を、日暮れ前、赤い炎を思わせる太陽が照らしていた。
そして、月は、そ知らぬ様子で白い顔して見つめていた。
絶対ナイと思っていた瑞人お兄様が、最萌えとなりました。
ルートに入ってみたら、萌えっぱなしでした。中の人GJ!